【天に舞う】
うすべに色の花片が舞っている。舘の結界に咲きほこった桜は、いまや降る雪のよう。ひとたび風にのれば天に還るかのごとく、陽の輝きをまとって空を舞う。
りんはそのすばらしい桜の結界を眺めながら、舘の敷地を歩いた。まだこの棲みかのすべてを見知ったわけではないから、散策をしながら新しい発見をしたり花を眺めるのは楽しかった。
舘は川や丘陵といった地形を利用しており山城というものにも近いらしいが、のどかな雰囲気と花咲く木々につつまれていて、ただのお伽話めいた屋敷にしか見えない。
こののんびりとした小路を歩くうち、りんは結界の外につながる橋まで行ってみようと思いついていた。すこし急な傾斜だが、近道になりそうな斜面をみつけたのである。そこをおりれば、小路を歩いてゆくよりはるかに短い距離で橋にたどりつけそうだった。
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ひらり、ちいさな光がやってくる。うすべに色の小片がひとひら、殺生丸の部屋に舞いこんだのだ。風にのって結界から届いたのだろう。殺生丸はその花びらに目をやると、いざなわれるように縁先に出た。花の香りと、りんの匂いがする。
心地よいそれをたどってみれば、彼女の姿をとおく、桜の並木に見いだすことができた。
りんは小路の途中で歩みを止めたらしい。見守る殺生丸のまなざしが、春風に撫でられたようにほんのわずか細められた。彼の無邪気な妻は丘の斜面に足をかけると、後ろ向きにそろりそろりと崖をおりはじめたのである。少々あぶなっかしいが、りんがたくましいのは今に始まったことではない。山菜でも見つけたか、あるいは近道でもしようという心づもりなのだろう。
しかし殺生丸は、ふいに金色の瞳をみひらいた。
――舞い散る花びらに攫われるように、りんの姿が消えてしまったのである。
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「わわっ!」
灌木をつかみながらわしわしと崖をおりていたりんは、とつぜん声をあげた。帯といっしょに体を持ちあげられている。このときのりんを喩えるならば、親猫に首根っこを咥えられた仔猫、といった具合だった。
「殺生丸さま!?」
「なにをしていた」
「あの……ちょっと近道を……」
殺生丸の目は笑っていない。日々、邪見からは奥方さまらしくしろと口やかましく言われている。やはりお屋敷の奥で慎みぶかく、雅やかにすごすべきだっただろうか。
小路の上におろされたあどけない「奥方さま」は、しゅんとうなだれてしまう。
「ごめんなさい」
だがその言葉を言い終わらぬうちに、りんの体は殺生丸に抱きすくめられていた。銀の髪と黒髪が、光の軌跡をまとって交錯する。殺生丸はわずかに息をついたようだった。
「殺生丸さま?」
「……りん。消えては……いなかったか」
「消える?」
りんは殺生丸の腕の中で顔をあげたが、視界には銀糸のような髪があるばかり。
あのとき……りんが崖をおりようとした瞬間、天つ風にのって桜の花びらが舞いあがった。そして殺生丸の視界からうすべにの吹雪が吹き去ると、りんの姿も消えていたのだ。りんが、いない。自分のまえから、消えてしまった。それは、ただの間の悪い錯覚にすぎない。殺生丸の嗅覚は、斜面の後ろにおりたりんの存在をまちがいなくとらえていたのだから。だが、これほど心騒ぐ錯覚があるだろうか。
「殺生丸さま、どうしたの?」
そう問うてから、抱きしめる両の腕が痛いほどきついことに、りんは気づいた。
「あたし、消えたりしないよ」
殺生丸は答えない。りんが消える日が来るとしたら、彼にはもう止める手立てすらないのだ。
「ずうっと、ずうっと、そばにいるから」
その呼びかけにも、こたえはない。ただりんを抱く殺生丸の力が、いっそう強くなる。
りんは殺生丸の胸に頬をよせた。この声が、届くだろうか。
「あたしは、殺生丸さまのものだもの」
――この体が朽ちても……。たとえ魂だけになって、あなたから見えなくなってしまっても。
桜の並木を、ふたたび風が駆けぬけた。りんが銀色の髪から水色の空へ目を転じると、花片がいっせいに舞いあがるところだった。うすべに色の天の河だ。
「わあ、きれい! 空に花びらが、あんなに」
花弁は川面のさざなみのように光りながら、惜しげもなく吹きすぎてゆく。この花びらというものが結界から離れどこへ消え去るのか、殺生丸にも、りんにもわからなかった。
「あたし、ここがすきです。殺生丸さまがいるから」
そうささやいて、陽の色を宿した黒曜石の瞳がほほえむ。
「桜、とってもきれいだね」
りんを胸に抱いたまま、殺生丸はかすかに頷いたようだった。
< 終 >
2015年5月1日UP
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