【うすべにの証し】


「なっ、なんじゃこれはー!」
 ひさかたぶりに空から舘の結界を出ようとした邪見は、阿吽の背中で悲鳴に近い声をあげた。結界をとりまくようにして、いつのまにか小さな集落ができているのである。館に馳せ戻った邪見は、殺生丸の居室に転がりこんだ。
「殺生丸さま、たいへんでございます! 結界のまわりに妖怪の村のようなものができております!」
「知っている」
「…………へ!?」
 殺生丸は事もなげだ。
「ここを館に定めたと聞きつけて、勝手に集まってきたようだ」
「勝手にって……何者らでございますか」
「いろいろだ」
 どうやら、長きにわたり酷遇されてきた弱い妖怪や、妖の枠からはみだした変わり者やらが、殺生丸を慕ってここまで追ってきたものらしい。聞けば、りんへの土産物を手にれるときに掛けあった妖怪たちもいるという。奈落が消滅してから数年、いつしか殺生丸という孤高の妖怪にも他者との繋がりが生じていたらしいのだ。
「それにしてもずうずうしい。この邪見が焼き払ってまいりましょうか」
「ほうっておけ」
「え! よろしいので?」
「りんの害にはならん。なるようならば、殺す」
「はあ、それならば……」
 邪見はしぶしぶ矛をおさめた。あのあるじが言うのだから、もしそうなれば必ずやりとおすだろう。
 一方、殺生丸のとなりで話を聞いていたりんは、目を輝かせて夫の君を見あげた。
「その村、行ってみたいです」
 殺生丸はすこし間をおいて答えた。
「……わたしと一緒のときならばな」
 邪見はためいきをついた。
(殺生丸さまはご自分を信じて慕ってくる者に対しては、あんがい甘くていらっしゃるからな。その最たる者が、りんじゃ。いや、あれは甘いなんぞというのを通り越しとるな……)

 りんはもうそわそわしている。
「殺生丸さま、ではいまから訪ねてもかまいませんか」
「ああ。支度をするがいい」
「わあっ、ありがとう殺生丸さま!」
 りんの声が童女のように弾んでいる。
 殺生丸は立ちあがって先に居室を出て行こうとしたが、ふと歩みを止めるとりんを振りかえった。邪見が訝しげに訊ねる。
「どうされたので? 殺生丸さま」
「忘れていた」
 殺生丸は屈むように片膝をつくと、まだ正座をしているりんの両肩に手をそえた。そのやわらかな首筋へ端整な顔をよせ、唇をつける。
「じっとしていろ」
 殺生丸は、つよくりんの首筋を吸った。
「あ……」
 唇の感触にりんは顔がほてって、めまいしそうになる。殺生丸と触れている部分から、躰が蜜のようにとけてしまいそうだ。閨での最中のように、意識が朦朧とする。ようやく唇が離れたときには、殺生丸の腕にしがみつかねばならなかった。
「あ、あの……」
「しるしだ」
 殺生丸は「阿吽と待つ」とだけ言い残して、廊下を行ってしまった。

 りんは首筋に手をあてたまま、しばらくぼんやりと座っていた。まるで魂まで吸いとられてしまったかのようだった。
 邪見が何かわめいている。
「りん、はやくせい。殺生丸さまをお待たせするな。おいっ、りん!」
「は、はい!」
 ようやく我にかえって、りんはふわふわと立ちあがった。そうだ、いまから我が夫を慕っているというひとたちの村に行くのだった。会ってみたい、どんなひとたちなんだろう。
 そんなりんを、「腑に落ちぬ」という顔で邪見が見あげている。
「ところでわしからはよく見えんかったが、さっきのはあれはなんじゃ」
「え! なんでもないよっ。それより邪見さま。なにかお土産になるものあったかな」
 するとただでさえ尖った口を、邪見はさらにとんがらせた。
「あれは押しかけ領民みたいなやつらじゃ。そんなもん必要ないわい」
「えー。厨におすそわけできるものがあったかもしれない。あっ、お庭の花はどうかな」
「やれやれ。では蔵の中でも見てみるか」
「ありがとう、邪見さま!」
 ふたりで並んで歩きながら、りんはまた首筋をおさえた。その手のひらの下には花びらのような、うすべにの痕。

――しるしだ。
――おまえは私のものだという、証し。


< 終 >












2015年4月1日UP
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