【月かげの酒】


 秋の夜、まるい月。
 遠く、祭ばやしの音がきこえる。

「今日はもう行かれないので?」
 邪見は一本の巨木を仰いだ。りっぱな大枝には、磨きあげたような月がかかっている。その青白い月光を受けて巨木に立つのは、殺生丸だ。銀の髪がこの世のものとは思われぬ霊妙な輝きを宿している。
「あのー」
「うるさい」
 今宵はりんの村で秋の祭りとやらをやっている。あの少女はずいぶんとそれを楽しみにしていたから、会いにゆけば喜びも増すだろうものを、殺生丸は動く気配がない。
(ふむ、どうしたもんか)
 邪見は首をひねった。殺生丸はあの大枝に立って、村を見守っているに違いないのだ。


 殺生丸の顔を青い月あかりが照らしている。
 たのしげな笛の音、酒を酌みかわす笑い声。澄んだ秋の夜気は、透明な水晶を透過させたようにざわめきを伝えてくる。あかあかと燃えているであろう松明の火の香、厨からは煮炊きの煙があがっているだろう。雑多な、人間のにおい。人の生きている場所だ。
「どうする、りん」
――ここから離れ、いつかすべてを捨てようとも私と来るか。それとも人として、人間の中で生きるか。おまえはどちらを選ぶ。
 殺生丸はまなざしを村へ据えたまま、唇をうごかした。
「選べ。私は気の長いほうではない」


「!」
 とつぜん、邪見が号令をかけられた兵卒のように起立した。呼ばれたと思ったのだろう。
「はいいいっ、わしはここに!」
「………………」
 巨木の大枝と地面のあいだに、ひややかな沈黙がおちる。邪見は用心深い亀のように様子をうかがった。
「あのー……?」
「呼んではおらぬ」
 どうやらしくじったらしい。邪見は冷や汗をかいた。しかしこの従僕は、月に照らされるあるじの姿を見守るうちにまた首をかしげていた。
(うむ、やっぱりじゃ。さしでがましいことかもしれんが……いやしかし……)
 さんざん迷ったすえ、おそるおそる口をひらく。
「殺生丸さま……ひさしぶりに御酒でも用意いたしましょうか。お口に合うものをさがしてまいります」
 殺生丸は虚をつかれた様子で一瞬沈黙したが、やがて静かな声で答えた。
「好きにしろ」


 邪見は阿吽をかりると、月夜の空を駆けた。
 反物を織る妖怪、めずらしい菓子をあきなう商人、半妖の飾り職人……りんを人里に預けてからというもの、殺生丸と邪見はやけにつてが広がった。それもこれも、りんへの手土産を得るためだ。しかし酒に関しては、いまのところあてがない。ただ今宵ばかりは、どうしても用意したかった。
(殺生丸さま、なにやら沈んでおられるような…………)
 そんなふうに見えたのは、月の光が青白かったせいだろうか。
 彼のあるじ殺生丸は、自分自身のことよりもずっと深く、あの少女を気にかけている。今宵もあるじなりにりんを思って、あえて行くのをやめたのかもしれない。きっとふかーいお考えがあってのことだろう。せめて酒なりとも伴にすれば、苦悩する心も晴れようというものだ。
「いまごろはりんも、祭りで忙しいんじゃろうな……」
 邪見はひとり呟いて、とつぜん「あ!」と声をあげた。
「もしかして拗ねておられるのか!? 今日は相手にされなさそうだから」
 もしそばにあるじがいたら、確実に蹴飛ばされていたことだろう。



 それから少しばかり月が西へ移ったころ。邪見はうやうやしく銚子をささげていた。どこで手にいれたのか、彼が得たのは薫りたかい極上の澄み酒だった。盃に満たされた透明な池に、青い月が映る。
 殺生丸は幾杯かゆっくりと飲みほすと、音もたてずに盃を置いた。酔いつぶれる姿など、だれにも想像すらできない端正さだった。
 邪見が感心して見とれていると、殺生丸はみずから銚子に手をのばし、こちらへ視線をよこす。
「へっ!? わしにもくださるので?」
 返事をするかわりに、邪見に持たせた盃へ酒をそそいだ。
「あ、ありがとうぞんじます」
 邪見はおっかなびっくり盃をほした。
(今日はなにやらめずらしいことばかりだわい)

 主従は冗談を言うでもなく歌い騒ぐこともなく、ただ黙々と盃をかさねた。言葉こそないが、こうやってあるじと酒を酌みかわすのもそう悪くはないな……と邪見は思った。
「いやはや、予想以上のよい酒ですな。明日にでも村へ届けてやりましょうか」
「……ああ」
 夜が深まれど、人々は寝静まるようすもない。高揚した空気、笑いざわめく気配、あかりの温かさ。
 ほの青い月は星を連れて、音もなく西へ西へとわたってゆく。


* * * * * * * * * * * *



 あかるくて、にぎやかで、心うきたつ旋律。耳にはいってくるこの音はなんだろう。祭ばやし、いやちがう。小鳥のさえずる声だ。
(……ああ、わし、寝とったんじゃな)
 邪見は眠りのなかから、ふわふわと浮上した。いつのまにか夜はすっかり明けたらしい。
(昨夜はたしか殺生丸さまと遅くまで飲みあかしたが……)
 あれからあるじはどうされただろう。はじかれたように飛び起きると、殺生丸の姿は影も形もない。
「……え゛!?」
 見回すと、酒器ともども酒もなくなっている。

 邪見はぼんやり座りなおすと、くしゃくしゃと笑ったような顔になった。
「さては殺生丸さま、りんのところに行かれたな」
 心配することはなにもなかったんじゃなぁ、と邪見は酒くさい安堵の息をはいた。
(元来殺生丸さまは、うじうじされるご気性ではないものな)
 どちらかというと短気だし……と邪見は心のなかで付け加えた。
 それにしても相変わらず容赦のないあるじである。せっかくの酒を全部持って行ってしまった。
「やれやれ、わしだけが置き去りじゃ」
 だが同行せずとも、邪見には二人のやり取りがわかる気がする。きっとりんは「逢いたかった」と伝えるにちがいない。殺生丸はいつもとまったく変わりない表情で、これまたいつものように「息災か」、などと言うのだろう。
 どれほど離れる理由があったとしても、あの二人は強く惹きあっているように思われる。まったく、はたからすれば心配のし損というものだ。とはいえ、邪見の昨晩のはたらきは徒労には終わらなかった。あるじの酌で、うまい酒をご相伴できたのだから。

(では、ここでお帰りを待つとするか)
 邪見は草っ原にごろりと横になると、たちまち大いびきをかきはじめた。酔って朝寝といえども、今日ばかりは叱られることはないだろう。今朝はやけにいい気分だ。なにやら心楽しい夢が見られそうである。


< 終 >












2014年11月1日UP
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