【隠形の怪】


「具合でもわるいの、邪見さま?」
「しっ、だまっとれ」
 それは、とある城下から戻るときのことだった。
 りんは珍しい薬草を見つけると、人里で食べ物と交換することにしている。武蔵の国から西へ向かう旅は思いのほかゆっくりと進み、食料を確保することはりんのたいせつな務めとなった。山賊やらが出るとかで、このごろは邪見が同行している。
 今日もそんなふうにして二人で戻っているのだが、邪見のようすがどうもおかしい。
(妙な気配じゃな……)
 邪見は金色の大きな目をぎょろつかせた。あたりの景色は、よくある山路の風景だ。しかし一箇所だけ誤りがある絵のように、どこか違和感がある。邪見は額に汗がぬるつくのを感じた。落ち葉を踏む音がやけに響くように思われる。全身を耳と目にするようにして歩いた。

「邪見さま」
 急に声をかけられて、邪見は心の臓が飛びだしそうになった。
「ひっ、なんじゃっ」
「なにかいる」
「どこにじゃっ」
「わからない。でもいっしょに歩いてるみたい」
 どうやらりんも気がついたらしい。邪見とりんは目線だけを動かして周囲を見まわした。何者の姿も目に映りはしない。だが、たしかに何か「いる」。
「はやく戻るぞ。いやーな予感がする」
 邪見がそう囁いたとき、風がざあっ………………と木々を揺らした。頭上をおおう木の葉の天蓋から、陽光がさしこんでくる。編みの緩い笊から、金塊がいくつもこぼれ落ちたかのようだった。

 見えざる者の姿をとらえたのは、この瞬間である。木漏れ日があたっている場所が、白い煙のようにゆらめいていた。それは巨大な獣のごとき輪郭を形づくっている。
「邪見さま!」
「ひえっ!」
 邪見はみょうな声を出したが、人頭杖を構えると、りんを背後にかばった。
「心配するな、これで焼き殺してくれるわ!」
 さすがは大妖怪の従者である、と言いたいところだが、邪見はすぐに敵の姿を見失ってしまった。妖怪の輪郭は、いつのまにか影も形もない。
「あれっ!? おいっ、どこじゃっ! 姿をあらわせ!」
 邪見はじりじりと後退した。姿が見えないのでは、翁の火も役にはたたない。一瞬でもいい、あの輪郭が見えさえすれば、紅蓮の炎で焼きつくしてしまうものを。

 どうやら相手の隠形は、なにかのはずみでその姿があらわになることもあるらしい。たとえば、さきほどの急な木漏れ日のように。
 りんは注意ぶかく周囲を凝視した。どこかおかしいところ、おさまりのわるさを感じるところ……。
「えいっ!」
 彼女の手から何かが飛んだ。勢いよく飛んだそれは、ばさりと乾いた音をたてて「空中」で派手に中身をぶちまけた。城下で薬草と交換した塩の包みである。塩粒が散らばったあたりに、ふたたび妖怪の輪郭があらわれた。
「あっ……!」
 あまりの近さに邪見とりんは立ちすくんだ。それは相手が前脚を伸ばせば、すぐにでも届こうという距離だったのである。これほど近づかれていたとは、不覚というよりほかはない。


 声さえ失って立ちつくした彼らのまえに、そのとき何かが舞いおりた。音もなく地におりたつのは、見間違えようのない銀色の髪、ひるがえる白い袂、二振りの刀。薄暗い森の下で、金色の瞳が炯々と光った。
「……殺生丸さま!」
 安堵の声が同時にあがる。殺生丸はりんと邪見を背にすると、烟る妖怪の輪郭に白刃のごとき視線を向けた。
「きさま、何をしている」
 妖怪は答えない。ふたたび淡くなるその形は、「ぶるり」と身じろぎをしたようだった。
「わたしのものに手だしする輩には、死んでもらう」
 殺生丸の言葉がただの比喩ではないと、邪見もりんも知っている。以前のように徒らに殺めることは少なくなったものの、彼は歴とした妖怪である。はたしてまた血を見ることになるか……。
 彼岸花のように赤い飛沫を想像して邪見が胴震いをしたその刹那、息を吹きかけられた煙のごとく妖怪の輪郭がかき消えた。
「お気をつけください、殺生丸さま!」
 邪見が声をあげた。またしても姿を隠して襲うつもりかもしれない。

 しかし殺生丸は、静かな瞳で二人をふりかえった。この妖怪にしては長い一瞥を人間の少女にあたえる。
「戻るぞ。りん、怪我はないな」
「はいっ」
 りんはもう得体のしれない妖のことなど頭にないのか、笑顔を咲かせている。邪見はうろたえてあたりを見まわした。
「へっ、あやつは!?」
「逃げた」
 そう一言だけ答えて、殺生丸は踵をかえした。敵をさらに追う気はないらしい。ということは、あれは相手をする価値もない雑魚ということだ。
「助かった……。あっ、殺生丸さまお待ちください。りん、もう行くぞ」
 りんはと言えば、地面に落ちた包みをつつきながら情けない声をあげている。
「邪見さまー。あたし、せっかくのお塩ばらまいちゃった」
「あほっ、のんきなこと言っとる場合か。それにしても、さすがはわしらの殺生丸さま。あやつめ、あわてて逃げだしましたな。ちなみにわしもりんを守ろうとして、人頭杖でそれはもう果敢に戦……」
「うるさい」

 三人は、またいつものように連れだってあるいた。殺生丸は気配が消えた方角へ、遠く目をやっている。光を凝集するように、金色の瞳が不愉快そうに細められた。
「殺生丸さま、どうかされたので?」
「いや」
 つられて邪見も見てみたが、何もない、ただの穏やかな山路だった。


* * * * * * * * * * * *


「で、殺生丸はその小娘をまだ伴なっているのだな」
「はい」
 侍女から報告をうけたあるじは、豪奢な肘掛けを優美な指でたたいた。
「やはり餌にするつもりはないようだし、ずいぶんと気に入っているらしいな」
「お方さま。ご指示どおりあとをつけてまいりましたが、やはり殺生丸さまよりお知らせあるまで、そっとされておいたほうが……」
「なにを言う。せっかくおもしろい暇つぶしを見つけたというのに」
 天空の女主人は、紅唇の端を麗しくつりあげた。……こういうひとなのだ。しかしこの女主人が子息を気にかけているのも、まぎれもない真実だろう。
 侍女はちいさく溜息をついてみせた。
「その暇つぶしのおかげで、わたくしはあやうく死にかけました」
「そうかそうか、苦労をかけた」
 女主人は、わらべにするようにして侍女の頭に手をやった。
「まあ怒るな。殺生丸とて、母が手の者をよこしたと気づいているだろう。以前見たときは仔犬のようであったが、あの小娘、大きくなっていたか?」
「はい。間近でとくと見てまいりました。体つきはさほど大きいとは申せませんが、しっかりした気性の、よい娘に育ったようです」
「そうか。早いな、人の子というものは」
 人の子……、人間。化け犬の主従は、ともに脳裏にえがいていた。はかなげでいて芯の強かったという、ある人間の姫のことを。
「まったく……。嫁にでもするつもりか」
「わかりません。ただ、たいそう大切になさっているごようすです。たしか『わたしのもの』、とおっしゃっていました」
「…………ほう。息子め、言うわ」
 頬杖をついた女主人の表情は、もう侍女には窺い知ることはできなかった。ただ銀髪の奥で細められた目だけは、杯にうつる月のように美しく光っている。


 鄙びた山路を、妖怪たちと人間の娘が行く。西へ、西国へ。
 ――妖怪のすみか、人ならぬものの領域へ。


< 終 >












2014年8月1日UP
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