【侵食の季節】


 大気は熱を帯び、じっとりと湿っている。春もはや過ぎ、初夏というさえおこがましいほどである。空には灰色の雲が沈むように垂れ込め、暗鬱な色合いを見せている。それでも救いは、屋敷に多く植えられている木々であろうか。雲を透過して射す光は僅かだが、瑞々しく若い緑はそれを一心に受けようと、目にも鮮やかに若い枝葉を伸ばしている。これも、本格的に夏となれば、白く容赦ない陽光に射られるのであろう。今は若い葉に優しい、曇天の陽射しである。

「申し訳ありません、殺生丸様!」
 その灰色の空に、老妖怪の声がこだまする。なにか失態でもしでかしたのか、殺生丸の座敷からよろめくように這い出てくる。奥にいるのであろうその主に、あたふたと低頭した。このところ彼の主はご機嫌斜めなものか、邪見はこうやって丸くなって叱責される事が多くなった。ひとり廊下を戻りながら、邪見は嘆息する。
「やれやれ、溜息をつくと幸せが逃げると言うが、これではわしの身がもたんわい」

 殺生丸が不機嫌な理由は、誰一人として知る者が無かった。あるいは、この蒸し暑い大気が彼を苛つかせているのかもしれなかったが、大妖の殺生丸にこの程度の気候が影響を及ぼそうはずも無く、周囲に付き従うものはその冷たい叱責を、あるときは無言の威圧を、ただ身を低くしてやり過ごす事だけに専念した。りんだけであろう、その殺生丸にわだかまりも畏れも無く接しているのは。屋敷に引き取って数年経つが、彼女の性格は野にいた頃そのままに、相変わらず一方的に無邪気なお喋りを繰り広げたりしては、にこにこと笑う。わだかまりがおありなのは殺生丸様のほうであろう、邪見はそう見ている。


「りん、うるさい! 退れ!」
 陰々と、雨でも降りそうな日だった。殺生丸の居間に、低く鋭い声が飛んだ。紫陽花の花を活けながら今日の出来事なぞを話していたりんは、きらきらと楽しげな目を一瞬驚いて見開いたあと、「ごめんなさい。りん、お邪魔しすぎてしまいました」と素直に詫び、活け花の道具を手早くまとめ殺生丸の居間を後にした。この頃、よくこんなふうに殺生丸に苛立たしげな言葉を投げつけられる事がある。
(またちょっとお喋りしすぎちゃった。でも殺生丸さま、最近少し前と違うみたい……)
 りんは殺生丸の部屋とそう離れていない自室で、残りの紫陽花を活け直しながら殺生丸を思った。こんなとき、りんの思考は冷静で客観的である。幼い頃は戦いに巻き込まれ危険な目にも遭ったものだが、たとえ命の危険を感じるような時でもりんの思考はきゅるきゅると回転し、停止状態に落ち込むことなく働いた。しかしその思考力洞察力をもってしても、殺生丸の不機嫌の理由は判然とはしなかった。
(少しだけ違う。殺生丸さまの声?仕草?、目? 少しだけ何かが違う……)

 殺生丸は不機嫌だった。
 何もかもが不愉快! 粘っこい湿度を持ったこの空も、ひれ伏す事しか知らぬ召使も、己そのものも!
 そばにあった小机を放り投げたい衝動にかられ、殺生丸は自嘲した。
 りん、だ。りんの存在。己を不愉快になさしめているもの。
 否、「不愉快」というのは、少し違うのかもしれなかった。りんのふとした仕草、伸びやかな手足。最近とみに艶やかになった黒髪、血潮の色をうっすらと透かせた唇……。りんの唇が己の名を口にする、その痺れを伴う甘やかな歓喜。気付けばその耳が目が、感覚全体がりんを追っていた。惹きつけられずには、いられない。りんを思うと、その姿を見ると、押さえ難い激情が込み上げてきて己でもわけが分らなくなる。
 この身の内に巣食う感情は何だ。己を侵食する。なぜこのような……!


 親を忘れた雛鳥のように殺生丸に付き従ってきた、りん。いつまでも子供だと思っていた。あるいは儚く命を終えようと、それは自分の持ち物を失くすくらいの感覚であろう、そう思っていた。
 それなのに。その心根はそのままに、いつしかりんは伸びやかに成長した。「殺生丸さま!」、そう呼ぶ声に、女らしい艶やかさが加わったのはいつの頃だろう。無限の信頼と親愛を込めたその瞳が、僮の眼差しでなくなったのはいつからだろう。邪見でさえ感心したように「見違えるようですな」などど言う。
 いつからこうなったのか……このあいだまでは、転んで泣きべそをかいていたではないか……。

 だが本当は気付いていたのだ。りんが、花開くように成長していくのを。感覚の鋭い殺生丸である、見落とそうはずはない。日を追うごとに己を蝕む、甘い狂気。熱を帯びてじっとり湿ったこの大気の如く、殺生丸に巣食った熱い何か。無関心を装っていて、実はりんに心奪われていった。己の思うままにならぬ己自身、それがうとましい。りんにではない。そんな自分に気付いた事が苛立たしかった。
 あらがえぬ……この殺生丸ともあろう者が……!

 薄暗くなった座敷に、忍びやかな雨音が入り込んできた。今夜は、一晩中雨になるらしかった。


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 夜になって降り出した雨は翌朝には上がり、雲の隙間から珍しく青空が顔をのぞかせた。りんは、蝸牛(かたつむり)が来ていないか気になって、起きて間もなく、昨日花を採った紫陽花の群生する一画へ足を運んだ。蝸牛は目玉をつつくとびっくりするのが可笑しいし、のんびり花やら葉やらの間を歩き回る様子が面白くて、ついつい見入ってしまう。
(そういえば、邪見さまは蝸牛嫌いだって言ってたな。あの目玉がどうも気に食わん、って)
 真面目くさった顔でそう熱弁をふるう邪見を思い出して、りんは思わず笑ってしまった。そんなふうに邪見と蝸牛の事など思い出しながら歩いていたりんは、紫陽花の茂みから声がかかって、ようやくそこに誰かが立っている事に気付いたのだった。
「何を笑っている」

 蝸牛に会いに来たら、そこには殺生丸。紫陽花の一叢を背後に、つくねん、と立っている。こんな所で殺生丸に会うのは珍しい。
「殺生丸さま、紫陽花見にいらしたの?」
「紫陽花は昨日部屋で見た」
 りんを待っていたのだろうか、ここのところ目が合えば、ふっ、とそらされていた金色の瞳が真っ直ぐにりんを見ていた。久しぶりに雲を破って大地に差し込んだ朝の光に、大妖の瞳は命ある宝玉にようにきらめいた。
(あぁ、この瞳。りんの殺生丸さまの目)
「あたし、蝸牛を……」
 心まで吸い込まれそうな金色を見ながら、りんは蝸牛を見に来た事、空木(うつぎ)の花が綺麗だったから殺生丸の居間に飾りたい、そんな事を矢継ぎばやに話そうとした。だが、それらの話をする事は叶わなかった。


 りんの言葉を遮ったのは、殺生丸の手。
「りん……」
 硬質で長い指が、りんの丸い頬にあった。りんが殺生丸に触れられた事は、そう多くはない。一瞬にしてりんの頬に血の昇るのが分った。りんにはもう、次の言葉が紡げなかった。頬が熱くなったのを悟られただろうか、殺生丸さまに……。

 殺生丸には、己の手がりんの頬の花弁に薄紅の色を注したように思えた。そして、ずっと自分はこうしたかったのだと自覚した。認めたくない事を認める、なんと不愉快で、だが心地よい事なのだろう。
 己はりんに惚れている。愚かだと嘲うものもあろう。だがもうそんな事はどうでもいい。己はりんに惚れている。

 沈黙した掌中の花を、ゆるぎない黄金色の目で見つめながら殺生丸は囁く。
「りん、済まなかった」
 そのままゆっくりと引き寄せると、殺生丸はりんに口づけをした。


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 のちになって、初めて口づけした事を覚えているかとりんが聞くと、殺生丸は決まって「覚えておらぬ」、と言った。そうするとりんは「では母様からお話しましょうね」と幼子をあやしながらその顛末を語り始め、悪戯っぽいきらきらした目で殺生丸を見上げるのだった。毎度ながら彼らしくもなく絶句してしまう殺生丸であったが、父とて言われっぱなしにはしない。
「あの時りんは素っ頓狂な声を上げたな。『殺生丸さま!?』と」

 空も木々も、光に満ちていた。雨はすっかり上がって、紫陽花には透明な雫がいっぱいだった。
 そうだ。
 口づけをされたりんの心臓は早鐘を打つよう、頬は火を吹くようで、思わずかのひとの名を小さく叫んだのだった。「殺生丸さま」、と。
 あの時は体中の力が抜けた、と言って、りんの大切なひとはほんの少し笑んだようだった。

 幼子は空を飛ぶ燕に興味をそそられたものか、小さな手を青空に振って機嫌よく笑っている。涼やかな風が吹いて親子の髪をそっと揺らしたかと思うと、そのまま座敷を吹き抜けて晴れ間の彼方に消えていった。床の間には、今切って来たばかりの紫陽花があの日のように優しく咲いている。 今日の空と同じ色だった。


< 終 >












2005.05.11〜2005.05.15ブログに掲載 2005.07.22サイト内に収納
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