【花】
空は一面に青く澄み、初夏の光が木々の翠をきらめかせている。今日はことのほか良い天気だ。りんはいそいそと小袖にたすきをかけ、手ぬぐいで髪をつつんだ。暑くなるまえに庭木の手入れをしておこうという心づもりである。
いくつかの建物からなる屋敷と、花木が植えられた庭。それらを囲む森をふくめると、ここはりんと邪見だけで手入れするには広すぎる。ゆえに折をみて妖怪らが手伝いに来てくれるのだが、それは十日ばかりも先のこと。もともと体を動かすのは好きなたちのりんである。たとえひとりでも、この晴天を無駄にする気はないらしい。
りんはまず一本の梅の木に梯子をかけると、青い梅の実をもぎはじめた。こうやってあらかじめ小さすぎる実を摘んでおくと、残された果実が大きく育つ。凛とした花をつけ実も食べられる梅は、りんのお気に入りだった。しかしこの大木は、少々てごわい。
「うえのほうは無理かなぁ」
せいいっぱい手を伸ばしてみたが、高い枝には届きそうにもない。
もう少し……と梯子のうえで爪先立ちになったとき、履物がいやな音をたてて滑った。
「わ、わ!」
さっと血の気がひくのが自分でもわかった。ふしぎなもので、こんなときにはさまざまなことが頭をよぎるものらしい。
(落ちたら小袖、破れちゃうかな…………!)
しかし、りんの体が地面に転落することはなかった。ぐらりと体が傾いた瞬間、力強い腕で抱きとめられたからである。髪をつつんだ手ぬぐいがとれて、黒髪がふわりとほどけ出た。
「……殺生丸さま!」
「無茶をするな」
軽々とりんを横抱きにすると、殺生丸は庭に面した縁側まで歩いた。そうして、こわれやすいものでも降ろすように、りんを縁先に座らせる。りんにはまだ心の臓が大きな音をたてているように思われた。
「ありがとう、殺生丸さま。いまの、ぜったい落ちたと思ったよ」
「梯子に登るのなら、誰か居るときにしろ」
はい!、と返事をしてから、りんはあたふたと着物の裾や袂に手をやった。
「はー。無事」
殺生丸はこころもち首をかしげた。
「このあいだ殺生丸さまにもらった小袖。破れなくてよかったです」
混じりけのない安堵の笑顔だ。しかし殺生丸にしてみれば、こちらの気持ちも考えろと言いたくなる。着物など、いくらでも替えがきくではないか。
りんは小さく首をかしげている。
「殺生丸さま、あたしが庭にいるって知ってたの?」
「……だいたいわかる」
ふいと横を向いてしまった殺生丸の白い袂が、初夏の風に揺れている。
その姿を見て、りんは「あっ!」と声をあげた。
「どうした」
「見せたいものがあったの」
そう言うと、着物にかけたたすきをするするとはずした。「待っててね」、という声をのこして庭の小路を横切り、屋敷を囲む森のほうへと駆けてゆく。まったく、止めるいとまもない。
りんという少女は殺生丸に嫁入りしたのちも、あいかわらず小娘のように身軽だった。駆けてゆく姿は風に舞う花びらか胡蝶のようで、いつも目にいれていなければ見失ってしまいそうだ。
…………殺生丸はある生々しい感覚におそわれることがある。りんの姿がかき消され、闇夜に舞い散る花びらのように目のまえから永遠に失われてしまう……そんな感触だ。いつかくるその日のことは、とうの昔に覚悟している。だが胸に巣食うこの痛みが年々大きくなっていると、彼は気づいているだろうか。
「はい、殺生丸さま!」
目をあげた殺生丸のまえに、りんの顔があらわれた。笑顔でなにかを手渡してくる。無意識に受けとると、それは小さな花の束だった。白い花が幾輪か。あやめの仲間で、「著莪」という花らしい。
「この花、殺生丸さまにちょっと似てるの」
りんは花びらを指し示した。白い花びらには淡く紫と黄の紋様がある。
「花びらが白くてふわーっとしてるところは、お着物の袂。薄紫色の模様もはいってるよ」
殺生丸に花のことはよくわからない。似ている、と言われても「そうか」としか言いようがない。
「村にいたころ、森のそばで見つけたの。殺生丸さまが来たころにはちょうど咲いてなくて。いつか見てもらいたいって思ってたんです」
りんは殺生丸のとなりに腰をおろした。黒い瞳のなかには木漏れ陽のような輝きが宿っている。幼い日にはじめてこの花を見つけたとき、りんは殺生丸に出逢ったあの日のことを思いだしていた。同じように深い森の陰で見つけた、白く気高いもの。りんだけの、たいせつな秘密。
「お屋敷の森にも咲くなんて、偶然だね」
殺生丸は手にした花に目を落とした。
「似ているか。これに」
「ちいさいころから、そう思ってたの」
じつのところ、この花だけではない。白いふわふわの雲や、その闘う姿のような稲妻、いつも見守ってくれている空の月。子供のころからずっとずっと、その面影を重ねてきた。逢えないときには、そうやって殺生丸を思い浮かべてきたのだ。
「えへへ、おかしいかな」
「……いや」
そのときりんは、不意に自分の片頬に手をあてた。殺生丸を振り仰いだその顔は、みるみる薄紅に染まってゆく。
「どうした」
「殺生丸さま、ふいうちー!!」
顔じゅうが熱くなって、体がどきどきする。そう、あのとき……「おかしいかな」、という言葉を否定したその刹那、殺生丸がかすめるようにしてりんの頬に口づけをしたのだ。りんにはまるで予想外だった。すっかり幼いころの気持ちにもどっていたからだろうか。
「ふー、今日はびっくりしてばかりだよ」
「不満か」
「ううん! こんどはあたしがやるんだから、覚悟しといてね」
そう言って笑むと、殺生丸の唇へ指を近づけた。「ここにふいうちをするよ」、という大胆不敵な予告である。世慣れぬ娘のように恥らったかと思うと、意図せぬ艶めかしさでこの大妖怪をまどわせる。殺生丸は魅入られたようにりんの瞳を見つめると、その手をつかんで胸のなかへ引きよせた。
「わ!」
「私の隙をつこうなど、百年早い」
熱をおびた眼差しだった。視線と視線が蔓のように絡みあう。
「……花は、おまえだ」
彼にとってりんは、生涯でたった一輪の、何ものにも代えることのできない花だった。
やがて気おされるようにしてりんが目を閉じると、ふたりの息がひとつに重なった。殺生丸の手から著莪の花がこぼれて、りんの小袖のうえに落ちた。まるで最初からそこにある花模様のようだった。
初夏の風をうけて庭の若葉があちらこちらでざわめいているが、りんにも殺生丸にも、もう聞こえていないらしい。
―― ねがわくば 百年先も 共にあらん……
< 終 >
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著莪(シャガ)
アヤメ科アヤメ属の多年草 |
2014年6月1日UP
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