【夏の氷】
こんなにも青いかと感嘆するような空に、真白い入道雲がいくつも見える。人里に近づくと、橙色の花をつける野萱草がちらほらと見えるようになった。
「はぁ、この花の色さえ暑苦しく思えますな」
「うるさい」
村はずれの道をゆくのは、殺生丸と邪見である。邪見はなにやら大きな櫃を背負って、てくてくと歩いている。夏草に埋もれてしまいそうだ。
「殺生丸さま、りんは?」
「まだだ」
邪見は「ひえええ」というおかしな声をあげた。蝉の声が雨のように降りそそいでいる。
「もうわし、暑くて重くて死にそうです」
「……では死ね」
とりつくしまもない返答に、邪見はまた「ひえええ」とぼやいて額の汗をぬぐった。
やがて道は、見慣れた村の中へと入ってゆく。野良仕事をする人間の姿があちこちで見えるようになった。
「おや、あれは殺生丸じゃないか」
「うしろから櫃がついてゆくぞ?」
殺生丸が村に姿をあらわすのは、もはや珍しいことではない。
「たしかりんは……さっき楓さまといっしょに通ったよな?」
「だれか教えてやれよ」
さすがに声をかけることはしなかったが、一人が鍬をさし上げて、丘の向こうに繋がる小道をしめした。
殺生丸は「それくらい知っている」、といった涼しい顔で進んでゆく。
「……犬夜叉とはずいぶん感じが違うよなぁ」
「純血の妖怪らしいからな。おれ、ほんとはおっかないんだ」
その端正な後ろ姿を見送っていた村人たちは、あとをついてゆく櫃がじつは邪見が背負ったものだと気づいて、ひそひそと声をかわした。
「なんだっけ、あれ」
「お供のなんとかいう、やかましいやつだろ」
「……いたのか、小妖怪」
殺生丸と邪見がゆく道の先に、大小ふたつの姿が見える。丘をかこむ道を歩く、楓とりんだ。
ゆっくりと歩を進めながら、老巫女はかたわらの田畑に目をやっていた。ほてったような土の香がするが、今年は旱の害もさほどなく、よく育っている。
「陽にも雨にも恵まれて、さいわいなことだ」
「はい」
りんはあたりを見回した。炎天まさに燃えるようだが、作物は葉色もあざやかに生き生きとしている。皆が丹精こめて育てたことをよく知っているから、りんもうれしい。
「わ、りっぱな茄子。こっちが茄子畑で、向こうは瓜だったかなぁ」
ぐるりと畑を見回したときだ。
「あっ!」
「どうしたね」
「殺生丸さまです、楓さま!」
「今日は邪見もいるようだぞ」
りんは来た道を小走りに、妖怪たちに駆け寄った。
「殺生丸さま! 邪見さま!」、そう呼びかけ走るりんの姿を見て、邪見はへなへなと崩れ落ちた。
「ここにおったか……!」
「わあっ、だいじょうぶ?! どうしたのこの箱?!」
「ええい、大丈夫じゃないわい!」
唾をとばしてわめく邪見を、ひんやりとした声がさえぎった。
「……はやく開けよ」
「はいいいいっ!」
櫃の中にはぐっしょりと濡れた筵がはいっている。邪見がわさわさとそれをかき分けると、水晶のかけらのようなものがひとつ、姿をあらわした。
「おや、氷ではないか」
追いついてきた楓が、感心したように櫃を覗き込んだ。
「殺生丸よ、そなたは氷室でも持っておるのか?」
「いや、不二の洞穴から運んだ」
こんな季節に氷を得るのは一苦労だ。都の貴人などは冬の氷を氷室に取りおいて夏に愉しんだというが、殺生丸は富士の山からこれを持ってきたというのである。
「最初はこの櫃いっぱいに氷を詰めたんじゃぞ? 阿吽の背に乗せとったんじゃが、休ませるためにあの山むこうからは、わしがかわりにここまで……。なのにこれだけしか残っとらんとは、わしの苦労はいったい……!」
「きさまが担いだときには、ほとんど溶けていたはずだが」
「……うっ、よくご存知で」
邪見はぎくしゃくと愛想笑いをした。確かにこの暑さで氷はどんどん溶けて、邪見が櫃を担いだときには、さして重くはなかったのである。
「まったく、大げさな」
楓があきれて言うと、邪見は顔を真っ赤にしてわめいた。
「この櫃だって重いんじゃっ。りん、はやくそれをいじるなり食うなりせい」
「はい! じゃあ、取りだすね」
りんは息をつめて手を伸ばす。「あっ!」と思わず声をあげたのは、ふれた瞬間、涼風が吹きぬけた気がしたからだ。注意ぶかくつまんで手のひらに置くと、濡れた宝玉のように美しい。
りんは老巫女をふりかえった。
「楓さまも!」
しかし、炒りつけるようなこの日盛りのことだ。ふりかえったときにはもう、氷のかけらはただの水にかえってしまっていたのである。
「え……! ごめんなさい、溶けちゃった……」
「かまわんよ。この暑いさなか、めずらしいものを見ることができた」
邪見はからっぽの櫃を覗きこんで、独り言のように呟いた。
「なんともあっけないというか、儚いもんじゃ。まあ、そんなだからますます大切に思うんじゃろうな」
殺生丸は不意をつかれたように立ちつくした。視線を感じて瞳をあげると、老巫女が自分とりんのふたりへと静かに目をやっている。
殺生丸はなにかもの言いたげに見えたが、そのまま口を閉ざした。
「殺生丸さま、楓さま」
「殺生丸さまっ、楓さまっ!」
りんの声で、殺生丸と楓は意識を引き戻された。見あげる眼差しは、「大発見!」と言わんばかりだ。りんは見て見てと手まねきをする。
「この箱の中、ずっと氷がはいってたからとっても冷たいんだよ!」
うながされて楓がふれてみると、たしかに濡れてひんやりしている。
「おや、ほんとうだ。これはよい」
「邪見さま、疲れたでしょう? この中でやすんだらどうかなぁ」
「あほっ、わしは荷物じゃないぞ」
「無理をするな、小妖怪」
殺生丸はそのにぎやかな様子を見ながら、あえなく消えさってしまう存在も断じて虚しいものではないと感じていた。その儚いものが、こんなにもりんの笑顔を輝かせているのだ。
「邪見さま、ありがとう」
櫃からたちのぼる冷気を愉しんでいたりんは、邪見をふりかえって言った。
「そうだ、阿吽にもお礼を言っておいてね」
「ふん」
「なんだか暑いの飛んでっちゃった」
りんは自分の手を殺生丸に差しだした。するとどういうわけか、冷酷ともいわれるこの妖怪が片手を差し伸べて応えてしまう。無意識のうちだっだ。殺生丸とりんを知らぬ者が見れば、驚くだろう。
りんは両方の手でそっと殺生丸の手をつつみこんだ。
「ね、まだつめたいでしょ」
「そうだな」
儚いもの。どんなに抗おうと、その手からいつかは零れ落ちてしまうもの。いまの殺生丸は、もうそれ知っている。そしてもはや手放すことなどできないことも、わかっていた。
「ありがとう、殺生丸さま」
そう言って見あげる瞳は、磨きあげた水晶よりもきらめいている。
「……気に入ったのならば、また持ってこよう」
それを聞いて、邪見は文字どおり飛びあがったものだった。
夏蝉の声が濃く、淡く、ふりそそいでいる。村はずれを吹く風が、ひとときやさしく丘をめぐったように思われた。
< 終 >
2013年9月1日UP
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