【銀色の螺旋】
その日、化け犬の姫君は不機嫌だった。銀の髪は美しく結われ、紅をひいた唇もまことに艶やかだったが、その金の瞳は鬱々としている。
「いつまでじっとしていればよいのか」
「宴がはじまるのは夕刻でございます。しばしのご辛抱ですよ」
かたわらに控えた侍女は、ゆったりとした口調で応じた。しかし彼女のあるじは、優美な指先で苛立たしげに文机を叩く。
「まだ昼前ではないか」
「いけませんよ、こんな日にうろうろなさっては」
「ちっ」
不満げに舌打ちをした化け犬の姫君に、侍女は訊ねた。
「今日は約束がおありでしたね」
「そう。そちらが先約だった」
侍女はなだめるような眼差しをおくる。
「あのような取るに足らぬ妖怪ども、打ち据えるのは後日でもよろしいでしょう」
「いいや、今日だ」
化け犬の姫君は切れ長の目に不穏な光を宿らせた。今日というこの日、じつに不愉快かつ下賎なあの妖怪一族を全滅の憂き目にあわせてやろうというところだったのだ。
「なのに今日、婚儀だと?」
「吉日ですから」
のほほんと答える侍女に、化け犬の姫君は嘆息した。
「……くだらない」
「まぁ、なにをおっしゃいます。一族の、いいえ、あなたさまの生涯で大切な一日ですよ」
化け犬の姫君は物憂そうに庭を眺めていたが、不意に目を細めると立ちあがった。
「ではその大切な日とやらに花を添えてやろうではないか」
「騒々しいな」
屋敷の一室に控えていた若い妖怪は、にわかに乱れた周囲の気配にいち早く気づいていた。
「どうやら奥からのようだ」
「……まことでございますか?」
案内のためにつけられていたこの屋敷の者は、怪訝そうに首をかしげた。己が屋敷のことながら、なにも感づいていないらしい。奥では、今宵妻となるべき姫君が婚儀の仕度をしているはずだった。
「気がかりだな。見てこよう」
「いいえ、こちらでお待ちいただかねば困ります」
止めようとするお付の肩をぽんぽんと叩くと、化け犬の青年は軽い足どりで回廊に出た。
「まぁ気にするな。それにしてもこの屋敷は広いなぁ。掃除など大変であろう」
「はあ、そうなのです……って、闘牙さま、お戻りを」
いろいろに呼称はあるが、闘牙王とも呼ばれるその若い妖怪は、どんどん先に歩いてゆく。
「しかし、なにごとか起きたようだぞ」
「なにごとかあれば、わたくしどもがなんとかいたします」
「おまえたちになんとかできるようには思えんな。かなり手ごわいぞ、あれは」
回廊を足早に進むうち、慌しい足音となにやら言い合っている声が彼らの耳にとびこんできた。巨大な妖気というおまけつきである。
だが伝わってくるそれは、邪な気配ではない。強大極まりないが、童のような稚気もある。闘牙には、なにか魂ごと吸い寄せられるような心地がするのだ。
「こちらへ近づいてくる」
闘牙の金色の瞳が光った。
「戻りましょう……!」
「なにを言っている。あの妖気の持ち主は近いぞ」
「のん気なことを。しかし、あれは…………」
すがらんばかりに止めようとしていたお付の者は、回廊の角にさしかかって声をあげた。
「あっ……!」
「これは……」
回廊の向こうからも驚きの声があがる。
「闘牙さま?!」
「姫さま?!」
従者たちの声がこだました。お付の妖怪たちと闘牙、化け犬の姫は、廊下のこちらとむこうで鉢合わせをしたのである。
「闘?……牙?」
いぶかしげな声は姫君のものだ。その姿をまじまじと眺めながら、闘牙は化け犬の姫君が噂どおりの佳人であるのを認めざるをえなかった。しかし聞いていた気性とは少々異なるようだ。それはこの妖気を感じ取ればわかる。
「たしか、お目にかかるのは初めてかな。姫君、どちらへおでかけか」
「…………やぼ用だ。すぐに戻る」
夫となる男への返答とは思えぬ言いぐさだが、闘牙はまったく気にしていないようだった。これだ、この妖気だ。肌に心地よい刺激すら感じる。もっと知りたい、変わった姫君だ、と思う。
「ずいぶんと勇んでいるが、なにか楽しいことかな?」
問いかけると、侍女がかばうように進み出てひれ伏した。
「闘牙さま、婚礼前のこの失態をお許しください」
困り果てていた彼女は乞うた。
「ああ、どうか姫さまを止めてくださいませ。愚かな妖怪どもを成敗するのは後日にしていただきたく……!」
「妖怪、成敗?」
こんな日に花嫁御寮みずからが暴れまわるなど聞いたことがない。闘牙は澄んだ瞳を数回瞬いたが、おかしくてたまらないというふうに大笑した。
「これはよい。おもしろそうだ」
化け犬の姫君はその美しい眉をひそめた。
「…………能天気だな」
「うむ。よく言われる」
不機嫌さにまかせて挑むような物言いをしたが、これまた闘牙はまったく気にする様子がない。かえって人懐っこい瞳でまっすぐにこちらを見つめてくる。悲観や卑屈とは無縁の、あかるい瞳だ。
その双眸を見て、不意に姫君の気が変わった。
「闘牙とか言ったな、おまえは強いか?」
「それなりには」
「ではついて来い。ある馬鹿どもがいてな。これからそやつらを痛い目にあわせてやるのだ」
「承知した」
快活さを絵に描いたような笑顔だった。化け犬の姫君は、つかの間その表情に目を奪われたが、ふいとそっぽを向いた。
「……足手まといになるようならば、置いてゆく」
「承知!」
―― ふしぎだ…………化け犬の姫君は思った。まるで心に翼を得たようだった。
あわてふためく侍女とお付を一顧だにせず、姫君は回廊の床板をとん、と蹴った。そのあとを闘牙が追う。
「案ずるな。姫君に怪我はさせぬ」
ふたつの軌跡はつむじ風のように、雷光のように空をかけた。それはまるで白銀の螺旋のようだった。
化け犬の姫君はずいぶんと飛ばしたつもりだが、闘牙はまったく遅れを見せなかった。いや、彼女は気づいていた。夫となるこの妖怪が、まだ本気でかけていないことを。
さして興味のわかぬ婚儀だったが、思いのほかおもしろい方向へと転がっているのかもしれない。化け犬の姫君は横に並んでかける青年の横顔をさとられぬように見つめた。
(……この男は私よりも『やる』かもしれんな)
愉快だった。すこし口惜しいけれど、愉快だった。
陽が西に赤々と落ちるころ、ふたりはかすり傷ひとつ受けることなく戻ってきた。
いつ帰るか、今か今かと気を揉んでいたお付の者たちは、戻った彼らを取り囲むようにして奥に連れてゆくと、よってたかって美しい衣裳で着飾らせた。婚儀の席にふたりを並べたときにはもう、うるわしい一対の雛のようだった。
彼らの相手となった妖怪たちはというと、ことごとく降参したらしい。化け犬の姫君の言ったとおり、宴には凛々たる武勇伝が花をそえることとなった。
若き妖犬の大将、化け犬の姫君。ふたりの縁は、ここに結ばれたのだった。
それは今からずっと昔、殺生丸という世継ぎが生まれる少し前の話である。
< 終 >
2013年7月1日UP
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