【双つ鏡】


 山のきわに夕陽がおちる。残光は初夏の西空を、ひとときあかるく照らす。

 村はずれの丘を、ふたりの娘が歩いている。ひとりは巫女装束の娘、ひとりはいますこし年若い少女のようだ。
「手伝ってくれて助かったわ。摘む時期をのがすと薬効が落ちちゃうのよ」
「あたしもいろいろ覚えられてよかったです」
 薬草の籠をかかえたかごめは、村を見おろす斜面にさしかかると、「見て、りんちゃん」と下方を指さした。
「あっ。田んぼの代掻き、終わったんですね」
 眼下には田植えを前にして、すっかり水が張られた田がひろがっている。今日はかごめの手伝いで薬草摘みに出かけたが、昨日まではりんも野良仕事の加勢に行っていたのである。
「いよいよね。腰を痛めたりするひともいるから、りんちゃんにも、これ」
 かごめはりんに座るようにうながすと、籠の中から薬草をより分けはじめた。

「そういえば最近、殺生丸は?」
 薬草をよりながらかごめが訊ねると、りんは首を振った。
「そう。このところ田んぼの準備で、村中あわただしい感じだったものね」
 たしかに、とりんは思った。この時期はもうみな大わらわというやつで、鍬を持った者や牛をひく者やらにあちこちで出くわすから、殺生丸には少々わずらわしいのかもしれない。
「これから田植えになると、もっと忙しくなるわね」
 かごめはりんの横顔に目をやりながら訊ねた。
「……さみしい?」
「いいえ。また来てくれるから」
 それは絶対的な信頼だった。もしも一年、いや十年彼が来なくても、信じて待っていると思わせるようなつよさがある。
 りんは丘の下にひろがる水田を見わたした。そこにはすっかり水が張られ、夕暮れの空がうつっている。まだ陽の輝きを残す金茶色、胸がせつなくなるような浅紫、薄紅と茜色のたおやかな綾、やさしくかすむ二藍の雲。田の一枚一枚に、空の鏡が嵌めこまれたように見える。
「きれいね」
「ほんとに」
「……」
 かごめはりんから目を離さずに言った。
「あなたのことよ」
「え?」
「さっき、とてもきれいな目をしてた。……殺生丸のこと、好きなのね」
 あたふたするだろうかと思いきや、りんは小さく頷いた。ほがらかで利発なこの少女が、どこに隠し持っていたのだろうかという、淑やかな表情だった。
「いままでの好きと、すこし違うんです。だけど……ずっとずっと、小さなときから」
 そう言って、りんは「わ!」と叫んで顔をおさえた。
「あたし、いまの口に出して……!」
 かごめはりんの背中をぽんぽんとたたいた。
(初めて会ったころは、ほんの小さな子だったのに、もうこんなに大きくなったのね)
 かごめは思う。殺生丸のやつ、早くしなさいよ、と。りんはもう決めているのに違いないのだ。
 背中の感触に安堵したのか、りんはまだすこし赤い顔で「ふー」と息をついた。こうやって見ると、さきほどの表情が幻だったのかというくらい、いつものりんに見える。
 ―― 私、いつでも力になるわ。あなたの気持ち、わかる気がするの。
 自分はこの戦国の世で、犬夜叉とともに生きることを選んだ。りんは殺生丸と、妖怪の世界で生きることになるのだろうか。思えば不思議な縁である。自分はこの少女を「お義姉さん」と呼ぶことになるのかもしれない……。


 夕暮れの空は刻々とうつろって、いつしか薄墨色の暮色が村を覆いはじめている。この刻限になるともう野良仕事はできないから、みなてんでんに家路につく。村にもようやく静寂がおとずれるのだ。
「さ、私たちも帰ろう」
 かごめは先に立ってりんに手をさしだした。りんは腕を伸ばすと、すこしはにかみながらかごめの手をとった。
「ありがとう、かごめさま」

 ふたりの娘はおのおの薬草を持って、夕暮れの道を帰ってゆく。
 空にはもう、いくつかの星がまたたきはじめていた。


< 終 >












2013年6月1日UP
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