【無音の雪】


 雲が厚い。鈍色の綿を敷きつめたような空からは、ときおり白い雪片が舞いおりてくる。
 殺生丸の舘へと向かう旅は、ここにきてもう半月ばかりも足止めをくっている。冬の気配が濃くなったかと思うと、ほんの数日で彼らの行く路は風雪に阻まれ、足元は抜き差しならぬほど白いものに覆われてしまった。

「今日も寒いね」
 板張りの床に座ったりんは、寒そうにもぞもぞしている。彼らが逗留するこの山家は、元は古い湯治場で妖怪たちが使っていたものだそうだ。周囲にいくつかの野湯があり、いまは誰もいないがそれなりには整備されていて、りんにもよい保養になっていた。
 陽が落ちると、山家はしんしんと冷える。りんは殺生丸の肩口に目を移した。真白い毛皮はたっぷりとしていて、この季節などは思わず頬ずりしたくなってしまうほどだ。
「殺生丸さま。それ……あたたかそうだね」
 すると、黙ったままこちらに妖毛をよこしてくる。りんは綿毛でも捕まえるように妖毛に触れた。抱きしめると、ふんわりとあたたかい。
「うわー、離れられなくなっちゃう」
 思わず声がはずむ。殺生丸はそこはかとなく不機嫌そうだ。「気に入っているのは妖毛か、それとも私か」、といったところだろうか。だが殺生丸は口にはしなかったし、じつのところ自分がかなり大人げないということに気づいてさえいない。
 りんはそっと目を伏せた。触れているところから、染みこむようにあたたかさが広がっていく。
(寒いのも、いいよね。こんなに寄り添っても、変に思われないもの)
 体温のぬくみに誘われるように、りんは殺生丸の横に座りなおした。
 山家に留まること半月、手を伸ばせばすぐ触れられる距離に殺生丸がいる。一つところで過ごすうち、りんははたから見れば「こわいもの知らず」なことをしているのを自覚しないわけにはいかなかった。

 すいこまれるような静けさだ。また雪が降りはじめたようである。
(ずっと…………こうしておそばにいられたら……いいなぁ)
 やがてりんは毛皮に顔をうずめたまま、うたた寝をはじめた。体があたたまったのだろう。
「りん」
「………………」
「りん」
 もう返事はない。りんは唇をすこし開いて、小さな寝息をたてはじめた。なかば呆れつつしばらくそっとしておいたが、みじんも起きる様子がない。毛皮を抱く力が少しづつ弱まって、指がほどけてゆく。
(……相変わらずだな)
 まるきり無防備に、安心しきっている。昔からそうだった。りんがこの妖怪に寄せる全幅の信頼は、一度たりとてゆらいだことがない。それが殺生丸には誇らしくもある。

 もう夢でも見ているのだろうか、りんは幸せそうに身じろぎをした。黒髪がひとすじこぼれて、うすべにの頬にかかる。ほの暗い屋敷の中、かすかに開いた唇とぬばたまの髪は、昼間とは違う匂いがする。それは澄みきった青空が、夕暮れになると恐ろしいほどあでやかに色づくのにも似ていた。
 頬にかかった髪は首筋をつたい、小袖の合わせ目へと落ちている。その垂れた黒髪が胸ごと上下して、りんの息づかいが手にとるように見てとれた。
――私の肩に寄りかかるこの娘は、生きている。
 それはこのうえない喜びだった。それと同時に、
――りんは私を狂わせる甘い息を吐く。
 殺生丸は、体中の気がざわざわと逆立つのを感じた。化け犬に変化するときのように、身の内が騒いでいる。血が沸きたって、海鳴りのような音を立てた。
 殺生丸はりんの肩を抱いた。端整な唇の奥で犬歯が鳴ったが、かまわず顔を近づけた。甘やかな匂いが鼻腔をくすぐる。華奢な肩へ、爪がかすかに食いこんだ。


「……殺生丸さま」
 その呼びかけは唐突だった。爪の感覚に淡く目を覚ましたらしい。まだぼんやりしているのだろう、ふわふわとした声でささやいた。
「……あのね」
「…………どうした」
「ひなたぼっこしてる夢みてた。殺生丸さまと邪見さまも一緒なの」
 殺生丸はまるで壊れやすいものに触れていたように手を浮かせた。
「そうか。では寝ていろ」
「……はい」
 その返答も半ばに、りんの瞳はふたたび瞼におおわれてしまった。殺生丸は手のひらを上へ反し、金色の冴え冴えとした瞳で見おろした。いま自分は、まぎれもなく我を忘れていた。

 りんはよほど心地よいのだろう、寄りかかったまま健やかな寝息をたてはじめている。
(そうか、私と邪見とりんとで、陽に当たっていたか)
 殺生丸は子供のように眠っているりんに目を落とした。
(おまえは私を知らない。知っていればそのような夢を見る余裕などないだろう)
――――葉の上の白露のように、小さな雪の結晶のように、手に触れるのが恐ろしくさえ思うものがある。触れれば、たちまち消えてしまうかもしれない。だが、いとおしさで手を伸べずにはいられないのだ。殺生丸はそういうものが存在することを、いまは知っている。

 身を騒がせる獣をなだめるように、殺生丸はりんの髪を撫でた。
――なにを望むというのだ。この寝顔が、あの笑顔が、かわらずにあってくれれば、それでいい。
 そう、それだけでいい…………はずだ。
(眠れ。おまえはなにも心配せずともよい)


 山家の屋根に雪が降りつもる。森も山も、淡い銀色におおわれてゆく。
 野の獣も木々も眠りについたらしい。ただ雪だけが、音もなく降りつづいていた。


< 終 >












2012年12月7日UP
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