【通ひ路】


 春は深さを増し、目に緑がまぶしい季節になった。野を渡る風が、たてがみのように草を吹きわけてゆく。風に色というものがあるとしたら、まさに翠色と言うべきか。

 まことに晴れやかな景色だが、それにそぐわぬ不穏な気配がうずまいている。道のこちらと向こうに、妖が対峙しているのだ。どうやら諍いが起こっているようだ。
 こちらの銀髪の妖怪は、眉ひとつ動かさないものの、声には不快さがにじんでいた。
「……退け」
 低い声だ。しかし向こうで仁王立ちしている四つ目の妖怪は、相手の力を見誤ったようである。揶揄する口調で返した。
「ふん、やさ男め。そちらが退けい」
 銀髪の妖怪は、金色の瞳をすっと細めた。退かぬなら退けるだけだ。彼は片腕をあげると、無言のうちに爪の一閃を放った。
「!!」
 四つ目の妖怪はやられたことにすら気づかなかったかもしれない。優美にさえ見えたその一閃は、胴を袈裟懸けに裂き、刷毛で描いたような鮮血を青草の上に撒きちらした。
「おまえ……!」
 その表情には、己が身に起きたことが理解できないとでも言いたげな驚愕がうかんでいた。倒れた四つ目の視界には、すでに踵を返した後ろ姿が斜めに映っている。銀色の長い髪にも、真白な着物にも、血飛沫ひとつ付いてはいない。
「ゆくぞ」
 彼はかたわらの小妖怪をともなうと、何事もなかったように歩きはじめた。
「殺生丸さまに道をあけぬとは、なんと無礼な。とどめをささなくてよろしいので?」
「雑魚には無用だ」
 殺生丸はもう関心がなさそうに歩いてゆく。まったく、くだらぬことに時を費やしてしまったものだ。


 二人はまた黙々と道をすすんだ。ただ野をわたる風と、葉擦れの音だけが聞こえている。なかなかにのどかなものだ。
 しかしその平穏を破るものがある。彼らを追う多くの足音と、騒々しい怒号である。どこからわいて出たものか、見たところざっと百人。さっきの雑魚の仲間らしい。瞬く間に追いつくと、殺生丸と邪見をとりかこんだ。
「いたぞ!」
「ただでは済まさん!」
「兄貴のかたきめ!」
 口々にののしり、まことにやかましい。
 殺生丸はゆっくりと歩を止めた。
「……うるさい」
「なんだと!」
 四つ目の群れはいきりたった。錆刀やらおそろしい棍棒を振り回していっせいにわめくと、まるで鬨の声である。
「澄ました顔しやがって。生きてたことを後悔させてやる!」
 しかし殺生丸は眉ひとつ動かさなかった。
「うるさいと言っている」
 殺生丸は爆砕牙の柄に手をかけた。目を閉じ、深く息を吐く。
 ―― そして静かに目をあけた。
「……うわっ!」
「ひっ!」
 効果は劇的だった。爆砕牙はまだ鞘から抜いてさえいない。だが妖怪たちは体の芯から慄いた。逃れようもなく降りそそぐ死を本能的に感じ取ったのだ。
 殺生丸は爆砕牙の柄を持つ手をわずかにゆるめた。そもそもたかが百匹の雑魚ごときに爆砕牙を使うつもりはない。無論、奴らがまだやるつもりならば、肉片ひとつ残さず消しとばしてやるつもりだが。


「おー、逃げてゆきますな」
 豆粒のように小さくなる妖怪どもを見て、邪見は勝ち誇ったように人頭杖を振り回した。
「殺生丸さまに喧嘩を売るとは、馬鹿なやつらじゃ。……しかしこういう手合いは、後を絶ちませんな」
 首をひねると、ぶつぶつと呟いた。
「殺生丸さまほどの大妖怪、知らぬ者はないはず……いや、もしかして…………」
 邪見は続きを飲みこんだ。その続きは「―― たいしたことないと思われてるのか?!」だ。
 なにかを察した殺生丸は、失敬な小妖怪をみごとな蹴りで山の向こうへと送ってやったのだった。

(……急いだほうがよいな)
 殺生丸は袂のあたりに目をおとし、それから空を見あげた。発ったときよりも、陽は西寄りに傾いている。思ったより刻が過ぎてしまったようだ。
 しかしながら、今日はとことん厄介ごとに縁があるらしい。
「どうかお待ちください!」
 殺生丸はただ黙って歩を止めたが、このときの気持ちは「溜息をつく」に近いものだった。
 彼ら、その妖怪たちは茂みから転がるように飛びだすと、殺生丸の前にひざまずいた。
「われらは四つ目に長年苦しめられてきた者です。連中を軽々としりぞけたのは、あなたが初めてでございます。不躾ながら、われらの殿になってはくださいませぬか」
「なにとぞ。お願いもうしあげます」
「われら一同、どこまでもついてゆく覚悟でございます」
 口々に言う妖怪たちを背に、殺生丸は地を蹴った。
「面倒だ」
「あっ、お待ちくだされ!」
 またたくまに殺生丸は空をかけた。
 遠くまだ名を呼ぶ声が聞こえるが、知ったことではない。本当についてくる気があるのなら、死ぬ気になって私を探すがいい。自分はいま急いでいるのだ。


* * * * * * * * * * * *


 陽は中天からやや西に傾いて、金色の混ざった陽光がきらめいている。川辺の風は、優しい手で体中をここちよく撫でてくれる。
 りんは歌など口ずさみながら青菜を洗っていたが、ふいに手元が暗くなったのに気づいて顔をあげた。
「あっ、殺生丸さま!」
「変わりないか」
「はい!」
 りんの表情がぱっと輝く。まるで花がひらくようだ。
「気づかなくてごめんなさい。あ、これね。洗って珊瑚さまのうちにも持っていくの」
 りんはそう言って山盛りの籠をかかげた。
「邪見さまは?」
「しらん」
 殺生丸は白い袂を無造作にたぐった。中に何か入っているようだ。
「その籠を置け」
 りんに手のひらを出すように促すと、殺生丸は袂から取りだしたものを手の中に置いた。
「くれるの!?」
「ああ」

 りんは手のひらの上に置かれた「それ」を見つめた。午後の陽射しの色をした、山吹の花の小枝だった。殺生丸が花の咲く時期を覚えていたとは思えないが、このあたりでは開花が遅れているらしく、まだどこも蕾しかつけていないのだ。
「ありがとう、殺生丸さま!」
 りんは両手でそっと小枝をつつんだ。
「きれいだね。もうどこかに咲いてるの?」
「……そのようだ」
 ここより西だが、どこで摘んだかなど覚えていない。ただりんが好みそうだと思い手折ったにすぎない。

(うれしい。あたしに殺生丸さまがお花をくれたの。会いにきてくれたの!)
 山吹の枝を見つめていたりんだが、ふいに「あっ!」と声をあげた。ある不思議なことに気がついたのである。
 ―― 散りやすい山吹の花びらが、一枚も欠けていない。
「殺生丸さま、これってずうっと袂に入れてきたんだよね?」
「そうだ」
 この花を持ってくるまでの多難など、りんは知るよしもない。殺生丸とて道中で妖怪を半殺しにしただの、雑魚どもを退けただのと、逐一話すつもりはない。まして妙なやつらに押しかけられただの、じつは花が枯れないように少々急いだことなど、どうでもよい。
「すごいね、きれいだね!」
 その笑顔が殺生丸にとってただひとつの報酬である。注意ぶかく持ってきた甲斐があるというものだ。


 川面に映る陽光が、黄水晶のさざれのようにきらめいている。
 りんの手の中で、山吹の花びらが風に揺れていた。


< 終 >












2013年5月1日UP
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