【湯烟覆う】


「りん、てぬぐい持ったか?」
「はい!」
「髪用のも持っとるな?」
「はい!」
「湯疲れするまえに出ること! いいな」
「はい!」
 号令をかける足軽大将のようにふんぞりかえった邪見は、りんの返事に「うむ」と満足そうに頷いた。
「それでは連れてまいります。見張りはこの邪見がいたしますので、ご心配なく」
「…………ああ」
 たかが湯に入るのに大仰なことだと思ったが、りんの楽しそうな様子を見れば殺生丸もまんざらではなかった。道中の休息として野湯のある山家を選んだのは、この自分なのだ。
 とはいえ湯に浸かるには少々修繕が必要だった。「こうすれば?」だの「いや、そっちのをこう、じゃろ」だのと思いのほか愉しげな小普請だったが、ようやくそれが終わったのが今日。いつにもまして邪見とりんが賑やかなのは、そういうわけだった。

「ほう、いいゆうべじゃな」
 雪をはらんだ雲は久方ぶりに去り、冬空は淡い茜色に染まっている。
「邪見さまはお湯に入らないの?」
「わしは妖怪じゃぞ。野湯なんぞは、怪我をした者や病の者が浸かるもんじゃ。格好悪くて入れるか」
「意地っ張りだなぁ」
「やかましい。わしはここで待っとるからな。なにかあったらすぐ言うんじゃぞ」
 りんは湯船へ向かいながら、「なにかって?」と聞きかえした。
「そうじゃな……山猿がでたーとか、湯のぼせして煮えそうだー、とかじゃな」
「わぁ、煮えたら困るよー」
 りんはくすくす笑いながら小袖を肩からすべらせた。夕暮れの空の下、のびやかなその後ろ姿が淡い影絵のように映えている。豊満なほうではないが若木のようにしなやかで、見ているのが夕陽だけなのは惜しいくらいだった。

 邪見は籬の裏側にまわると、よいしょと腰をおろした。
「湯浴みの番なんぞ、しょーもない役目じゃな」
 まあ見張りと称してひとやすみできるのは悪くない。ちょっとばかり居眠りでもしようと目論んだ邪見だが、つかの間の休息はたちまちりんの声で吹き飛んでしまった。
「うー、しみるー!」
「なんじゃっ、なにごとじゃ!」
 とびあがった邪見は、りんのほうへ叫んだ。
「怪我でもしとったのか!?」
「ううん、お湯がすごく気持ちいいの!」
「あ……あほっ、年寄りみたいなこと言いおって」
 邪見はふにゃふにゃと座りこんだ。まったく人騒がせなやつめ、とぶつくさ言っている。
「邪見さまも入ればいいのに。いい湯治になるよ?」
「年寄りに勧めるような言いかたするなっ」

「こんなに気持ちがいいお湯なのに、もったいないなぁ」
 りんはあたたかい湯に肩まで沈めながら思いめぐらせた。
「殺生丸さまもやっぱり入らないのかな」
 病気でも怪我人でもお年寄りでもないからやっぱり無理かな、そんなことを思った。
「それに殺生丸さまが湯浴みするのって、なんとなく想像できないかも……」
 そう呟いたとき、とつぜん殺生丸のたくましい肩や胸板が、おどろくほどの鮮明さで脳裏によぎった。
「わっ!!」
「おいっ、今度はどうした?!」
「えっ、て、あっ、なんでもない!」
 りんは盛大に水音をたてて頬をおさえた。
(今のなに?!)
 見たことはあるのだ。空気のしんと澄んだ早暁、殺生丸が片肌を脱いで爆砕牙を構えているのを。振るでもなく、ただ風やにおいを感じとるかのように端然としている。ひとたび敵の出現あれば、その静謐を裂いて雷光のように一刀をきらめかせるのだろう。まるで殺生丸が雷光そのものにさえ思える。そんな姿を、りんは我を忘れて見入ったものだった。
 しかしいま目にうかんだのは、神々しいほどのその立ち姿だけではない。そこから視線を転じて、大写しするようにしてりんの瞳に刻み込まれた、殺生丸の生身の上体だった。研ぎ澄まされたような筋肉が肩から腕にかけて隆起している。胸板は着物を着ているときよりも、ずっと広いように見えた。
(どうしていまごろ…………あっ、殺生丸さまの湯浴みとか想像しちゃったから?!)
 りんは手で顔を覆った。なんだかとてつもなく恥ずかしいような気がした。
(もー、なんなのー!)
 りんは鼻の上まで湯にもぐった。そうすれば、いま思い起こしたあの光景をしばらく頭の中から追いだせる気がしたのだ。
(……煮えそう、ってこういう感じなのかな)
 りんは湯に沈み込みながら、邪見の言葉をぼんやり思い出していた。

 金朱の入り日も山の端へ隠れ、山家も夕闇につつまれはじめている。顔がぽやぽやと赤いのは、湯のせいだけではないようだ。かくまうように湯けむりと薄暮がりんの姿をつつんでいく。「湯のぼせするぞー」という邪見の声さえ、朧に淡くかすむようだった。


< 終 >












2013年2月1日UP
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