【妻問い】
春の空は一枚の白い紗をかけたように、やわらかな色をしている。結界の森を散策していた邪見とりんは、谷向こうのそこに殺生丸と阿吽の姿を見つけた。
「あれって殺生丸さまだよね?」
「おお、本当じゃ」
大きく手を振っていると、進路をこちらに向けたようだ。双頭の竜は、まもなくふたりの目の前で見事な着地をして見せた。
「殺生丸さま、おかえりなさい。阿吽も、おつかれさま!」
りんがたてがみを撫でてやると、双頭の竜は満足げに首を上下させた。もっと撫でろと顔をおしつけてくる。
殺生丸は優美な手さばきで手綱を寄越した。
「邪見」
「はっ。ご用というのは、もうお済みで?」
「ああ。阿吽を休ませておけ」
邪見は一礼すると、阿吽を厩へひいて行った。戻りがてら、木々の梢を右に左に、左に右にと仰ぎ見ている。
邪見がそれに興味深げなのは、このあたりの桜が蕾をやわらかくほころばせているからだ。花たけなわとなるのも、ほどなくだろう。
「さっきね、ここでお花見しようって話してたの。きっとすてきだよ」
そう言って振り返ったが、殺生丸の瞳は桜ではなく、ただりんだけを映しているのだった。
りんははっとしたように視線を泳がせた。だが殺生丸は気にしたふうもなく、静かな声だ。
「今日は逃げないのか」
それは数日前のこと、りんは殺生丸を突き飛ばして逃げだしてしまったのである。
「ごめんなさい。あれはね、その、まだ慣れてないっていうか、悪気はなくて……」
あの日以降も殺生丸はいつもと変わらない。そうりんには見えた。だから彼にとってあれは些事にすぎないのだと思っていたけれど、気分を害していないという証もない。
「あのね、いやとかそんなのじゃないよ? ただ……」
うろたえる様をじっと見ていた殺生丸は、先日と同じようにりんの頬に手を伸ばした。りんはわずかに息をのんだ様子だったが、いざなわれるように口と目をとじた。
ふたりのあいだに静寂がおちる。唇をつけるのは、あの日逃げられて以来だ。殺生丸は本能のおもむくままに接吻をりんの唇からおとがいへと這わせる。それが耳朶へと忍び寄ったとき、りんはびくりと体を震わせた。
わずかに、唇が離れた。りんがぎこちなく身じろぎすると、殺生丸は低く吐息をもらした。それが甘い苦悶を宿していることに、りんは気づく余裕もない。
「あのね……あたし最近、変なの。殺生丸さまといると、どきどきしすぎちゃうの」
「……りん」
「なあに?」
「おまえに伝えておくことがある」
りんは接吻のせいで速くなった鼓動を抑え込むように、胸に手をあてた。
殺生丸の瞳にはゆらぎがない。なにか、大切な話だと直感した。
「どうしたの、殺生丸さま?」
殺生丸はまっすぐにりんの目を見つめかえした。
「私は、妻を娶る」
「え……」
とつぜん心の臓を冷たい刃でつらぬかれたら、こんな心地だろうか。思わずりんは目を閉じた。
「そ、そうなんだ」
こんな日が来ることを全く想像しなかったわけではない。天空の屋敷ひとつを見ても、殺生丸という跡継ぎが妖怪たちにとっていかに大きな存在であるかは明白だった。
りんは真っ暗な瞼の中が、ひどく揺れているような気がした。
(お祝いを言わなくちゃ。これは殺生丸さまにとって、いいことなんだもの)
瞼をあげると、つとめて明るく寿いだ。
「おめでとうございます、殺生丸さま」
――でも、なんだろう。胸に大きな穴があいてしまったみたい。
それでも残る朗らかさをふりしぼると、殺生丸の顔を覗きこんだ。うじうじするのは性にあわない娘だった。
「ね、殺生丸さまのお嫁さんって、どんなひと? やっぱり妖怪のお姫さま?」
殺生丸ほどの大妖の妻であれば、きっとかの御母堂のようにやんごとない生まれの美しいひとなのだろう。
しかし、りんの言葉を聞いた殺生丸は、心外そうに眉をひそめた。
「なにを言っている」
「一族の許婚とか、言い交わした姫君とか……」
「くだらん」
この娘は聡いくせに時々驚くほど鈍いときがある。殺生丸は馬鹿馬鹿しいという態で、短く言った。
「おまえだ」
「? あたし?」
「いま、嫁入りの衣裳を仕立てさせている」
りんは事態の変化に、しばし置いてきぼりをくった。
「えーっと、殺生丸さまのお嫁さんが、あたしってこと?」
「それ以外にどう受け取れる」
「えーと……」
「今朝、様子を見てきた。衣裳が仕上がりしだい祝言だ」
りんは三度、二度とまばたきした。
(今朝阿吽と出かけた用事って、そのこと? 嫁入り衣裳? あたしの?)
ようやく事態が飲みこめてきたものの、目が回りそうとはこのことだ。
「うー、聞いてないよ、そういうこと」
「いま言った」
「そうじゃなくて」
殺生丸は少しの間をあけて、短く訊ねた。
「…………いやか」
身じろぎさえしないその様子が途方にくれた少年のように見えて、りんは慌ててかぶりをふった。
「いやなわけないよ、そんなわけない」
――ついさっき、自分の立っているところさえ分からないくらいだった。さびしさで死んでしまうんじゃないかと思った。それなのに、あたりまえみたいな口ぶりで「おまえだ」なんて。そんなふうに想ってくれているなんて、知らなかった。
りんは殺生丸の胸にそっともたれながら、甘い呟きをもらした。
「殺生丸さまの、いじわる」
殺生丸は真白い袂をふわりとひるがえらせると、両の腕でりんをかき抱いた。
「不本意な言われようだな」
言葉とは裏腹に声音はやさしい。りんは急に泣きたいような気持ちになって、覆いかぶさるようにして自分を抱いている殺生丸の長身を抱きしめ返した。
あたたかいりんの体温を感じながら、殺生丸の胸に苦笑めいた感慨がよぎる。
(……振り回されるのは、こちらも同じだ)
初めて会ったときなど、無礼にもいきなり水をかけられたものである。あのころは、この娘を手放すこともできなくなるとは、思いもしなかった。
やがて幾つもの月日が巡り、幾度目かの春が訪れた。いま殺生丸は、この娘、りんが一生わが想いと覚悟に気づかぬままなのではないか……そんな焦りすら感じている。
――私のものだ。この命にかえても、私が守る。時がおまえと私を隔てる日まで、誰にも、渡さぬ。
殺生丸は澄んだ瞳でささやいた。
「りん、よく聞け」
「はい」
「私の妻になれ」
りんの婚礼衣裳が出来上がったのは、桜の花が満開のころである。
< 終 >
2012年6月29日UP
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