【春の夜嵐】


 それは風のはげしいある夜のこと。花の時期はぽかぽかと暖かいかと思うと、こんなふうに突然荒れ模様になることがある。この日も昼中は暑いほどだったが、夕暮れとともに風がうなりをあげて吹き荒れはじめた。


 夜更けに風は一層荒れた。しかしこんな夜も、殺生丸は板戸を開け放したままだ。目は閉じ、背は柱に、黙然と座している。風の音が次第に強まっているのが、部屋の中でも手にとるように分かった。
 殺生丸は眠ってはいないのだろう。その銀色の睫がかすかに動いた。
(雨に、なる)
 殺生丸が目をひらいたその瞬間、白い光があたりを昼のように浮かびあがらせた。地鳴りのような遠雷の音が響いたかと思うと、天をひっくりかえしたかのように大粒の雨が地面を叩きはじめる。
 風が木の枝をきしませる音、大きな雨粒が大地を洗う音、木の葉が互いを叩く音。これは春の命が騒いでいる音だ。
 殺生丸は狂乱ともいえる響きを耳に受けながら、庭の向こうへと目をやった。そこには殺生丸の部屋とも繋がっている棟があり、そのうちのひと区画がりん部屋としてあてがわれているのだった。

 我知らずそちらを眺めていると、りんの寝室でかすかな物音がした。この嵐に目を覚ましたらしい。そろそろと板戸を開ける音がして、白い夜着姿の少女が姿をあらわした。
「わあ、すごい雨……!」
 りんは驚きの声をあげた。この舘に来てからは、これほどにはげしい嵐にあったことがない。
 少女はためらいがちに庭を透かし見て、殺生丸の姿を探し求めた。庭をはさんだ向かいには、殺生丸がいるはずである。だが、人間の目は非力だ。篠突く雨と暗闇に阻まれて、寝所の中までは見とおせないらしい。
 りんが控えめに身を乗りだしたとき、天の力添えか、舘の上空にまばゆい稲妻がはしった。あたりは真白い光に晒されて、りんの注視を手助けをする。しかし彼女はそれを活かすことができなかった。とっさに目を閉じてしまったのである。殺生丸がこちらを見ているのにも、ついに気づかなかった。
 風雨はおさまる気配もない。りんは肩をすくめてしばらく寝所のほうを見ていたが、殺生丸はいないか寝ていると思ったのだろう。やがてちんまりと床に正座をすると、お辞儀をした。
「おやすみなさい」
 それから照れかくしのように、すこしおどけて呟いた。
「戸、いつも開けっぱなしだけど、雨が入っちゃいますよ」


 ……殺生丸にはすべて見えていた。聞こえていた。この程度の風雨など、殺生丸の視覚や聴覚には妨げにもならない。
(…………怖ければ、来ればよいのだ)
 こんなふうに空が荒れる夜、ひとりで広い部屋に休むのがすこし心細いのだろう。
 だが、おそらくりんは本能的にためらっているのだろうと思った。ここに来ればただではすまないことを、生き物の直感として感じているのだ。
 殺生丸は目を閉じた。
(それも、もっともだ。私とて、りんがここに来れば……どうなるか分からぬ)
 閉じた瞼の奥にりんの姿が見える。白い夜着姿で、闇のなか心もとなそうに立っている。雷光にうかびあがった姿は、攫ってしまいたいほどに華奢だった。攫うことなど、簡単なはずだ。

 雨に湿った春の闇の中、りんの匂いがここにまで薫りはじめた。まとわりつくように、またすぐにでもかき消されてしまうかのように。それはこの嵐のごとく殺生丸の奥底を騒がせ続けたのだった。


< 終 >












2012年4月27日UP
< back > < サイトの入り口に戻る >