【若葉風】


 初夏の空は、のびのびと明るい。どこまでも晴れやかで、そこに吹く風もとびきり快闊だ。昨日は近隣の村で祭りがあったらしく、風とともに笛やら太鼓の音がこの村まで届いたものだった。


 りんは幾人かの少女たちと川べりで雑用をしていたが、ここでも話題になるのは村祭りの話だ。楓の村でも無事田植えが終わったので、これから小さな祭りの準備にかかるのである。
「楽しそうなお囃子だったね」
「ここのだって負けてないよ。まあこのへんじゃあ、あたしたちのが一番だね」
「そういえば、今年の太鼓だれがやるの?」

 手を動かすのも忘れておしゃべりに興じていると、唐突に「まいったな」という青年の声が割って入った。聞きなれない声だ。娘たちはいっせいに警戒の視線を向ける。
「あんた、だれ?」
「昨日の祭りの、笛の吹き手」
 「声をかけたけど、ちっとも気づいてくれない」、そう言って笑う顔にりんは見覚えがあった。というのも数日前、お使いの帰り道で出会ったこの青年に、とつぜん求婚されたのである。ところが化け犬の妖怪が疾風のように現れてりんを咥えて飛び去ってしまったのだから、さぞ驚いたことだろう。
「このあいだは、びっくりさせてごめんなさい」
「いや、それはこっちのほうだ。あんたが『楓さまんとこのりん』だって知らずに、へんなこと言っちまって。いや、噂話には聞いていたんだけど、ふるまい酒もいただいてたし、もっとその……山姥みたいな娘だと思ってたから」
 そう言いかける口を、青年は慌てておさえた。
「ごめん。妖怪につれて来られた娘だからって、そんなわけないよな」
 りんは思わず吹き出していた。己のあずかり知らないところで、自分が髪をふり乱したすごい形相の嫗みたいに伝えられているらしいのが可笑しかった。

 青年は頭をかいた。
「それで今日はお詫びに来たんだ。祭りのとき飴売りが来てさ、あんたにと思って」
 そう言って、りんの手の中に小さな包みを置いた。
 りんは「謝られるようなことじゃないよ」と慌てて押し返したが、青年は無理に持たせると、もと来たほうへと駆けていった。
「おれ、この村にお使いのあるやつと代わってもらって来たんだ。用足ししないと!」
 それから唐突に歩をゆるめたかと思うと、くるりとこちらを振り返った。りんの姿をじっと見つめる。
「あのさ……!」
 青年は少々の逡巡のあと、思い切ったように叫んだ。
「殺生丸って妖怪、りんの大切なひとなのかい!?」
 様子を見守っていた少女たちが声にならない「きゃーっ」という歓声をあげた。りんは呆然と立ちつくしていたが、なにか言わなくてはと口をパクパクさせた。
「え、え、え!? うん!」
 青年はまじろぎもせずりんを見つめていたが、「そっか!」と言ってまた駆けていってしまった。

「えーと、今のなに?」
 りんが少女らを振り返ると、年かさらしい娘が溜息をついた。
「りんはこういうとき、ほんっと鈍いよねぇ」
 皆して頷く少女たちに、りんは首をかしげた。一人の少女が言い添える。
「さっきのひとは、あんたが好きなんだよ。だから、『殺生丸はりんの想い人なのか』、ってこと確かめたんじゃないかな」
 それを聞いて、りんは思わず声をあげた。
「え、なんでそうなるの?」
「もー! なるったら、なるのっ。ていうかりんは殺生丸のことどう思ってるのさ」
「え」
「どう見てもさっきのひとに勝ち目はないよねぇ。でもあれは諦めてない感じだったよ?」
「そうそう。りんがいまいちはっきりしなかったからなぁ」
「えー!?」
 大騒ぎをはじめようとする少女たちに、一番年長の娘がおひらきとばかりに手を叩いた。
「もう、さっさと片付けないと日が暮れるよっ!」

 すっかり雑用も終え皆と別れてひとりになると、りんは空を見あげた。
(大切なひとか……って、そんなのあたりまえだよ)
 ひとりぼっちのあたしを救ってくれたひと。つよくて、きれいで、やさしい、りんの殺生丸さま。
 しかし青年の問いかけには、それだけではない、別なものを感じた。なにか、自分も知っているかもしれない、特別な想いのこもった言葉。簡単に口にはできない、それで、うまく返事ができなかった。
 胸の中にあるこれがなんなのか、考えを巡らせてもまるで薄い霧をつかむようだ。
 りんはかかえた籠を、ぎゅっと胸元におしつけた。
「うー、なんだかここがモヤモヤするー!」
 それからふいに腕の力をゆるめると、ほっと息をついた。
「やっぱりよくわかんない。あしたまたみんなに訊いてみようかな」
 りんは籠をしっかりかかえなおすと、元気よく歩きだした。
 生命の匂いをのせた軽やかな風が、木々の梢を揺らしている。


* * * * * * * * * * * *


 村を見おろす丘に立つ影がふたつある。ひとつは小さく、もうひとつは丈たかく、風になびいてときおり光るのは銀髪だろうか。
「お会いにならずとも、よろしいので?」
 小さいほうの影がおそるおそるという態で訊ねた。銀髪の影は端然とした立ち姿のまま微動だにしない。
(さっきから、ずーっと見ていらっしゃる……)
 小さいほうの影は、聞こえぬように溜息をついた。村まで来たかと思ったら、こんなところで立ち止まってしまった。いま眼下の畦をりんが歩いてゆくというのに、黙ってそれを見送っている。
(ええい、こっちを向け、りん。殺生丸さまはいますごーく不機嫌なんじゃぞ。お姿に気づいて声でもあげれば、ころっとご機嫌もなおろうというものを。……まぁ人間じゃものな、気づかんでも当然か)
 しかし……、と邪見は首をひねった。
(なにかお気に障るようなことでもあったか? ここに来るまではいつもと変わらぬご様子じゃったが……)
 脳裏にうかんだのは、先ほどの若者だ。
(もしかして妬いておられる、とか? ご自分の縄張りにあるものに手出しされるのは好まぬおかたじゃものな。犬だし……)
 そっと見あげると、あるじの顔はいつものように涼やかだが、触れるのがこわいような気が渦巻いている。
(あなおそろしや…………)
 そのとき、すこーんと烏帽子の上に落ちてきたものがある。殺生丸が持っていた菓子の包みだ。
「いたた、これはりんへの土産ではありませぬか」
「貴様にやる」
「へっ?! これはわざわざ京の都から求めた……」
 邪見は包みを拾いあげてあるじに差し出したが、もう殺生丸は関心がないとでもいうように視線さえよこさなかった。
「今日は別のがあるようだ」

 なにもかも、見ていた。
 りんに言い寄ったあの男が、また会いに来た。菓子のようなものを渡して、りんはそれを受け取って。粗末な野良着を着てりんと同じ黒い髪をしたその若者は、姿が見えないところまで走ってゆくと、名残惜しそうにまたそっと振り返ったのだった。
 己と近くて、だが遠くもある、美しいものを見たような気がした。
 うつくしい……そんなふうに感じるのは彼にとって心外極まりなかった。ましてや、わずかでも好もしいと思ったとしたら。初夏のきらめく光の中に、人間の娘とそれに心よせる人間の男がいる。その情景は綿毛のようにやさしく、胸に満ちるものさえ感じた。……そこにいるのがりんでなければ、だ。
 殺生丸は拳をひらくと、鋭い爪に目をやった。
(守ることもできない弱い存在でありながら、私のものに手出しする許しがたい輩。いますぐ追って、八つ裂きにしてやろうか)
 しかし自分にそれはできない、いや、する気にならないのだ。あの者はりんに対して、どこか自分に似た情を持っている。
 それに気づいて殺生丸は舌打ちをした。ただとにかく腹立たしかった。

 殺生丸は踵を返した。
「帰るぞ」
 ぼけっと菓子を見つめていた邪見は、文字どおり飛びあがった。かくもご機嫌ななめでは、置き去りにされかねない。
「おわっ、お待ちください殺生丸さま!」
 視界から遠ざかる白毛を、邪見は必死でつかんだ。とたんに妖毛ごとふわりと体が浮いて、一足飛びに村を出る。邪見の視界に芥子つぶのようなりんの姿が一瞬見えて、それもすぐに景色の中に消えた。


 畦道をゆきながら、りんは周囲を見まわした。どこからか名を呼ばれたような気がしたのだ。だがあたりに人影はなく、野良仕事をしている村人が遠目に幾人か見えるだけである。
「へんなの。殺生丸さまが呼んだのかと思っちゃった」
 りんはかかえた籠をきゅっと抱きしめた。また胸のあたりがおかしい。
(殺生丸さまに逢いたいなぁ。……って、このあいだ逢ったばっかりだよね)

 潮騒のような音を立てて、山からの風がおりてくる。りんはふと気にかかり、はるかに見える丘の上へと視線をうつした。村はずれの、登ればあたりを一望できる小高い場所だ。
 けれどもう、そこに先ほどまでの影はない。ただ風が揺れているばかりである。


< 終 >












2012年5月26日UP
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