【雲の湊】


 春まだ浅い山路を、妖怪と娘がゆく。春浅い、も言いすぎだろうか。枯れ枝が天を指し、まだ雪の残る景色を見れば、季節は冬の揺り籠の中にいるようにも思われる。
 それでも娘の足どりは軽い。冷たい大気も真冬とは違う、かすかな高揚感をはらんでいるようだった。
「とっても遠くまで来たね、邪見さま」
 今に至るまでの旅路を思い出し、娘が語りかけた。老妖怪は溜息をつく。
「本当はもっと早く着くはずだったんじゃぞ」
 思えばここまで来るのにずいぶんかかった。阿吽で空をゆけば、これほどに時はかからなかったであろう。彼のあるじは、りんの村から徒歩で山路をつたい、ゆるりゆるりと新しい住みかへ向かった。野分けや雪に阻まれて幾日も足止めをされたこともある。しかし殺生丸は、りんが人の世と急激に離れることを気遣ったのか、それとも久しぶりの道行きが興に入ったものか、急ぐ様子もなく旅を続けたのだった。
「まったく。屋敷はもうすぐなんじゃから、口を動かさんと早う歩け」
「はぁい」
 数日前、邪見は一足先に目的地の屋敷へと遣わされていた。阿吽に乗ればひとっとびの距離、そこに彼らが住まうことになる舘がある。
「ね、ね、お屋敷ってどんなとこ?」
「行けばわかる。この森を抜ければもうすぐじゃ」
「ほんとう?! じゃああたし、先に見てくるよ」
「こりゃっ!」
 邪見の声が後ろに聞こえる。りんはこの旅が終わってしまうのが寂しいような、目指す場所を早く見たいような、自分でも不可解な感情に突き動かされて衝動的に駆け出していた。


 残雪の森を駆け抜けると、とつぜん視界がひらけて広々とした草の原がりんを出迎えた。ざあっ、と野を渡る風の音が聞こえる。りんは船乗りのように身を乗りだすと、目の前に手をかざした。その先はゆるやかな勾配になっており、森をしたがえた舘と、堀のようにも見える川が遥かに見てとれた。
「邪見さまーっ。あれがそう?」
 まだ冬木立でもたついている邪見に叫ぶと、「多分そーじゃー」と遠く声が聞こえた。
「あれが、これからあたしが住む場所。殺生丸さまと暮らす場所」
 りんは胸に手をあてた。
(楓さま、かごめさま。あたし、無事にたどり着きました)
 発つその日までりんを気遣ってくれた、なつかしい人たちが瞼に浮かぶ。りんは面影に語りかけた。
(殺生丸さまが選んだ場所だもの、きっと良いところです)
 しかしながら、数年間すごしたあの村とはずいぶん様子が違うようだ。見たところ畑などなさそうだが、食べ物はどうするのだろう。周囲に人や妖怪は住んでいるのだろうか。よくよく思えば、わからないことだらけだ。
 りんは「よぅし!」と呟いて、駆けくらべをはじめる童のように両手をにぎりしめた。ここでも覚えることがたくさんありそうだ。

 飽きることなく舘や周囲の風景を眺めていると、冬草を踏む音が聞こえた。人間の足音とは異なり、どこかかそけき響きがある。
 りんの傍らに立ったのは殺生丸だ。肌寒い風に無言で髪を舞わせていたが、やがておだやかな声で呟いた。
「人里が恋しくはないか」
「え?」
 唐突な問いは、まるで独り言のようだった。
 りんはかぶりを振る。
「いいえ」
 ただ一言。
 りんは心に決めて来たのだ。なにもかも、すべて。

 殺生丸は目だけで頷くと、流れるような挙措で舘の方向を指さした。屋敷は自然の地形を利用して建てられているようであったが、それらは巧みに組み合わされ、川の流れと立派な木立とが屋敷周辺をぐるりと囲んでいる。
「あの川と木々が結界の境になる」
 大妖怪の根城、しかも人間の娘の住まうこの屋敷には強力な結界が必要だ。妖怪は言うに及ばず、邪心ある人間に対してもそれは不可欠の備えだった。件の川と木立の内側は、殺生丸の妖力の支配下となる。
「あの木は……」
 殺生丸は端整な唇に言葉をのせようとして、一瞬言いよどんだ。
「……春になれば薄紅の花を咲かせる」
「春、薄紅……」
 りんはある花を脳裏に思い浮かべた。
「桜!」
 殺生丸はかすかに頷いた。
「……そういう名だったな」
 りんは「咲くのが楽しみだね」、そう言って殺生丸を見あげた。春ともなれば、屋敷は雲のような薄紅色に囲まれるのだろう。それをこの妖怪が楽しみにしているかは分からない。なにしろその木の名前さえ失念してしまうひとだから。けれど夢のように美しい桜の木々を共に眺めることができたなら、どんなに素晴らしいだろう。手などつないでみたならば……そんな想像が頭をよぎって、りんは「わ!」と叫んだかと思うと、やけに赤い頬を両手で押さえた。
 殺生丸は別段気にする様子もなく、「中に行くには橋を渡る」と、舘の一角を目線で示した。それを渡れば、結界の中ということだ。
「橋はあたしみたいな普通の人間でも渡れるのかな。殺生丸さま、お屋敷ってほかのひとにも見えますか?」
 りんは目を輝かせた。知りたいことがたくさんある。殺生丸は「あとで邪見に説明させる」と返した。かすかだがやわらかな苦笑が浮かんでいる。まったく、幼い頃と変わらず表情の豊かな娘だ、と思う。そういえば、はじめて会ったときもそうだった。

 あれから幾年経っただろう。そのときから、自分は少々変わったのかもしれない。
 殺生丸は短く呟いた。
「雲の、湊」
 口にしたつもりのない言葉だった。けれどその泡沫のような言の葉を、りんはしっかりとすくいとっていた。
「雲の、みなと? あのお屋敷のこと?」
 殺生丸を見ると、彼は答えることなく舘へと歩きはじめていた。他人が見れば冷たいとも思える態度だったが、りんはまったく気にしない様子である。
「殺生丸さま、お屋敷のまわりは海には見えないよ」
 りんが駆けてその後ろ姿を追うと、殺生丸はぶっきらぼうに答えた。
「あれは私の湊となる」
 どういう意味だろう。殺生丸さまが雲なのだろうか。まさか毛皮がもこもこしているから? それにここは人の目には陸に見えるけれど、本当は船の行き交う海原なんだろうか。
 頭の中で見当はずれの問答を交わしながら、りんはやっと殺生丸の横に並んだ。じっと横顔を見つめる。
「えーっと、よくわかりません」
 りんはお手上げといった表情だ。殺生丸はあえて説明しようとはしなかった。
「わからずとも、かまわぬ」

「おーい、りん。わしを置いていくなー」
 背後から飛びこんできた声がある。ようやく森を抜け出た邪見だ。吹き溜まりの雪にはまったのか、着物のあちこちが白くなっている。
「邪見さま、大丈夫ー? お屋敷、すぐそこだよー!」
 りんは朗らかに声をあげると、跳ねるようにして手を振った。もう思考の方向を切り替えたのか、謎かけのような言葉は忘れてしまったようにも見える。
 阿吽の轡をとった邪見は、屋敷がもう遠くないのを確認して安堵の面持ちだ。
「やれやれ、長かったわい」
「やっとゆっくり出来るね、邪見さま」
 りんが言うと、ようやく追いついた邪見は偉そうにそっくり返ってみせた。
「殺生丸さまのお屋敷なんじゃからな、行儀よくするんじゃぞ」
「はい!」
 殺生丸は二人に目をやると、凛として前を向いた。
「舘に入る」


 冬枯れの草を踏む。日々を生きるように一歩、また一歩。
(湊だ、私の)
 その言葉は、今度こそ胸の中にとどまったらしい。当然余人には聞こえるはずもなく、りんは晴れ晴れとした足どりで舘へと歩いている。軽やかでいて、ゆるぎない歩みだ。

 りんの中にひたむきな想いがあるように、殺生丸の中にも強い想いがある。出会ったときから今日に至るまで、その想いは大きさを変え、色づくように意味合いを深めながら、彼の中に存在している。戦いだけに生きてきたこの妖怪は、どう言えばそれを表すのにふさわしいのか、知らない。
 けれど確かなことがある。殺生丸にとって、この舘の最も重要な存在理由は「りん」だ。どのような困難が起きようとも、たとえその身を賭してでも、殺生丸はこの舘に、いや、りんの元に帰ってくるに違いなかった。
 殺生丸はいささか複雑そうな笑みを浮かべた。それに気づく者があれば、浅春の陽射しに似たものを感じただろう。
(大切なものなどないと思っていた私に、帰りたい場所がある)

 舘の周囲で風が光っている。それは、ほどなく到着するであろうあるじたちを心待ちにしているようにも見えた。


< 終 >












2012年2月1日UP
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