【恋ひ恋ひて】
舘から遠く望む山並みにも、季節のうつろいが際立つようになった。山の中腹には淡く黄色の色調が見える。満作の花が咲きはじめたのだ。
殺生丸の一行がこの屋敷に入ってから幾日が経っただろう。しばらく旅をしていたので、屋根のある場所にいることがなにやら不思議にも思える。この場所がりんと殺生丸、そして邪見の新しい棲家なのだ。
りんは屋敷に入ると早々に厨を整え、住み良いように調度品のたぐいを工夫した。邪見などは、「人間とは慣れるのが早いもんじゃな」と内心感服したものである。
今日もりんは黒髪に手ぬぐいを巻いて、掃除やら道具類の点検に忙しい。目下、板戸と格闘中だ。屋敷の造作はじつに見事なのだが、人の手にこなれていないところもある。この板戸がそうで、なかなかすんなりと動いてくれない。
今度こそはと足を踏みしめて、りんは思いっきり戸を引っ張った。そうすると、きしきしと音を立てて抵抗していたはずの相手が、あっけなく横滑りに動いたではないか。
「え、わ、わ、うわっ!」
りんは体の均衡を崩して転びかけた。すると、その腰をとっさに抱きとめた者がある。
「……殺生丸さま!」
「何をしている」
「ちょっとね、この板戸がなかなか動かなくて」
りんは少しうろたえながら答えた。誰もいないと思っていたのに急に抱きとめられて、まだ心の臓がどきどきいっている。
殺生丸は何度か板戸を往復させた。
「確かに少し固いようだな。直させよう」
軽々と戸を滑らせるさまを感嘆の面持ちで見あげながら、りんは慌てて「大丈夫だよ」と答えた。
しかし殺生丸に聴く気はないようだ。
「怪我でもされては困る」
戸なんぞで怪我をしたとしても、たかが知れているはずだ。けれど殺生丸が気にかけてくれている。なんだかうれしいな、と思う。
りんは殺生丸を見あげた。
「このお屋敷、ほんとうに立派だね。なんでもあるし、あたしとても良くしてもらってます」
殺生丸は無言で頷いた。
りんは手ぬぐいをはずすと、縁先に座った。ふわり、とりんの匂いが薫る。
「今日はなんだか春らしいね。ここから見える山、きれいだよ」
りんが言うと、殺生丸もごく自然に腰をおろした。確かに着いた時とは、山の色が違う気がする。りんは山並みに見える満作の黄色を指さした。
「ほかの花より先に『まず咲く』から『まんさく』、なんだって。ほんとかな」
そう言って笑った。
静かだった。殺生丸ははるかな山並みに目をやっている。だがこの静寂が、りんの匂いをより濃く感じさせていた。それは殺生丸の心のうちに入り込むやすらぎであり、狂おしく身を焦がす甘美でもある。
そのうちに、殺生丸の肩に黒髪がやわらかく触れる音がした。よりいっそうりんが近い。
(眠ったのか……)
殺生丸は目だけをりんに移した。殺生丸の肩にもたれて、黒い睫をやや伏せている。それがさざ波のようにふるえているのは、りんが眠ってはいないことを示していた。
「りん」
殺生丸が名を呼ぶと、常ならばすぐに「はい」という元気な声が返ってくるのだが、今日は少し様子が違うようだ。
「どうした」
りんは答えなかった。やや間があって、ようやく口をひらく。
「こうしていたいの」
それは消え入りそうなささやきだった。
珍しいこともあるものだ、いつもは快闊なこの娘が。
「りん」
殺生丸は肩に手をかけてりんを起こそうとした。まさしく無粋ではあるが、りんを案じたためでもある。するとりんは殺生丸の肩に顔を押しつけて抗った。
「殺生丸さま、あの……あたし……ごめんなさい」
「何を言っている」
「やっぱりなんでもないの」
こんなやりとりをしていても埒があかない。殺生丸はりんのおとがいをとらえて顔を上向けた。りんの潤んだ瞳がみひらかれて、さっと頬が紅潮する。
「どうしたのかと訊いている」
殺生丸がふたたび問うと、ようやくりんは答えらしい言葉を口にした。
「あたし、ちょっと図々しいことを思ったの」
「図々しい?」
りんは睫で頷いた。
「あたしいま、殺生丸さまを独り占めしたいって思ったの」
りんはとつぜん殺生丸を押しのけるやいなや、「わー!」と叫んで顔をおさえた。
「無し、無し! 忘れて」
真っ赤な顔でぱたぱたと手を振ると、りんは立ちあがって回廊を駆けた。邪見の「屋敷の中を走っちゃいかん」といういつもの小言は、とりあえず忘れておいた。
(なに言ってるの、あたし)
りんは廊下の角を曲がりながら、もっと赤くなった。
(りんの馬鹿ー!)
その時だ。背後で床板を蹴るような音がひとつ聞こえた。瞬間、白い稲妻のようなものが視界に降りたと思った。りんの目の前に殺生丸が立ちふさがっている。
「せ、殺生丸さま!」
りんは硬直してしまった。一瞬にも満たぬせつなだったが、殺生丸にしてみればこのような距離は無いに等しい。
殺生丸は獲物を捕らえるように、りんの顔の両側に手をついた。背にした板戸が烈しい音を立てる。りんの髪がひとすじ、ふわりと舞った。殺生丸と板戸の間に閉じ込められ、これ以上は逃げることができない。
「独り占めにしたいと言ったか」
殺生丸の眼光が炯々とりんを射た。早春の景色を眺めていた先ほどとは打って変わって、圧倒されるような気を感じる。
そばにいる、ただそれだけで嬉しいのだ。なのになぜあんなことを思ったのだろう。こんなにしあわせなのに……これ以上の喜びなんて、きっと無いはずなのに。
「いいの、やっぱり。そばにいるだけで、もう充分なの」、そう言い繕おうとした瞬間、りんの中で声が響いた。
(それだけじゃない……!)
りんは金色に光る殺生丸の瞳をまっすぐに見つめかえした。抑えておけない。自分の気持ちを、もうはっきり知っているから。
「あたしは…………」
二呼吸ほども置いて、りんは言葉を継いだ。
「あたしは殺生丸さまだけを想っていたの……ずっと、ずっと。大好きなの」
殺生丸は目をみひらいた。
「だから、殺生丸さまのこと、欲張ったの」
うまく言えない。どう言えば伝わるのだろう、幼いころからの「好き」が違う「好き」になったことを。貴方に「恋」していることを。
ついてゆくことを選んだのは身勝手かもしれない。妖怪と人は、その命数も生きる世も異なるのだから。けれどりん自身の心はとうに決まっていた。自分の気持ちが伝わろうと、伝わらなかろうと、その果てに我が身がどうなろうとも、想うこの気持ちだけは変わらない。
「間違いないか」
「え?」
想像していなかった言葉が戻ってきて、思わず聞き返した。この想いが確かか?、ということだろう。殺生丸の金色の瞳がまっすぐに見つめている。りんはぎこちなく頷いた。
瞳がちかい。頬があつい。胸がくるしい。早春の風にあたっているというのに、りんの血潮は冷えるどころか、よりいっそう熱をおびて駆けめぐる。
殺生丸はりんを抱え込むようにして突いていた両の手を、わずかにゆるめた。前傾した肩から銀色の髪が音もなくりんに降りかかる。それはひんやりと冷たくなめらかで、春先の霧雨のようだと思った。
殺生丸は板戸から右の手を離すと、りんの頬に添わせた。その手が震えるのではないかと思った。
「私も同じだ」
自分は今まで、ずいぶん長い間りんを待った、そんな気持ちでいた。しかし長い間待ったのはほかでもない、りんのほうかもしれなかった。いま、自分はりんを女として受け入れようとしている。同じ想いを秘めて歩いていたことに、ようやく気がついたのだ。
(私は存外、愚かなのかもしれぬ)
殺生丸は愛おしい少女の頬に添えた手を、おとがいへと滑らせた。そっと親指で唇をなぞる。
「りん」
名を呼ぶと、少女は目を閉じた。
その日りんと殺生丸は、初めてのくちづけを交わしたのだった。
< 終 >
2012年2月18日UP
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