【灯ともし頃】


「おーい、りん。日が暮れるぞ」
 邪見は屋敷の庭にりんの姿を見つけて声をかけた。藤色の雲は次第に紺へと変わり、赤銅の夕日はとうに山の端の向こうだ。紅に染まった秋の木々も、今は影絵のように静まっている。
「早く中に入らんと風邪をひくぞ。って、なにしとる」
「あかりを灯すの」
 りんは庭園にすえられた大きな石の上に灯籠を置いて、あれこれ位置を吟味しているようだった。両手で持ちあげられるほどの小ぶりな銅細工だ。
「ね、邪見さま。殺生丸さまもうすぐだよね?」
「ふむ、御母堂さまのお屋敷に行かれたからな。早く戻られるじゃろ」
 邪見はあるじの不機嫌そうな表情を思いだして首をすくめた。なにやら用があるとかで朝早く天空の屋敷へ発ったが、そんなときは決まって矢が反転するようにして戻ってくる。行くたびになにかとちょっかいを出されるので、殺生丸には鬼門となっているようだった。
「たぶんご機嫌斜めで帰ってこられるぞ」
 りんは今朝のことを思いだして、くすくす笑った。ここを発つ前りんがついて行きたいと言うと、殺生丸はそれはもう真剣な顔をして、「駄目だ」と切り捨てたものだった。以前りんを伴ったとき、御母堂はりんを一日中傍らから離さなそうとせず、しびれを切らして無理に引き剥がせば、「おお、悋気じゃ、悋気じゃ」と大げさに嘆いてみせるという始末だった。
「御母堂さまは殺生丸さまとお会いになると嬉しそうだけどね」
「……まぁ、楽しんでおられるのは確かじゃな」



「ところであかりと言うが、なんでまたそんなものを」
「お帰りは夜でしょ。お部屋先を明るくしとこうと思って」
「あほっ」
 邪見はわめいた。
「あかりなんぞなくとも、殺生丸さまにはなーんでも見えとるわい」
 邪見の言うことはもっともだった。殺生丸には夜の暗さなどなんの意味もない。人には見透かせぬ闇も、なみの妖怪には濃すぎる闇も、彼には無意味だ。そもそも殺生丸の嗅覚をもってすれば、視覚を遮られたとて、この場所に戻るのはいともたやすい。
「そうなんだけど……」
 りんは灯籠をすえる手をしばし休めた。
「あかりがあったほうが、なんだかほっとするかなぁって」
 あの村でのなつかしい日々、子供たちと木の実採りをしていて日が暮れてしまったことがあった。田畑も道も、山の影と同じようにどこまでも真っ暗だ。途中でみんなと別れると、急に闇の濃さが増したような気がした。手探りするようにして、やっと楓の小屋にたどり着いたとき、その筵の奥からもれた囲炉裏の火の光がなんと温かそうだったことか。
「だから、殺生丸さまには意味ないかもしれないけど、ただあたしがあかりを灯しておきたいの。ここですよ、って」
「ふん、いらんおせっかいじゃな」
「ふふふ、そうだね」
 りんは屈託なく笑った。


 そんな話をしているうちにも空は次第に翳ってゆき、いつしか夕雲の色は夜空とすっかり同化してしまった。灯籠は銅の色を光らせて、火を入れられるのを今か今かと待っているかのようだ。
 邪見は灯籠に施された精緻な模様を透かし見た。
「見事な細工物じゃが、どこから持ってきた」
「このまえ作ってもらったの」
 訊けばこの屋敷に出入りしている妖怪の職人に頼んだのだと言う。殺生丸の新しい屋敷には、ときおり妖怪が出入りするようになった。それは一族の者だったり、商人だったり、職人だったり色々だ。そのうちの一人に金物の扱いがうまい妖怪がおり、こまごまとした生活の道具を作らせている。その妖怪に頼んでおいたらしい。
「見て見て、ここの文様は一緒に相談して工夫したんだよ」
「ほー、そうか。ていうかいつの間に手なずけとるんだ」
「手なずける?」
 りんは怪訝そうな顔をして首をかしげた。
「ここに出入りしとる妖怪たちのことじゃ。お前、うまいことあやつらを使いこなしとるなぁ」
「えー、友達になっただけだよ」
 邪見は溜息をついた。
「友達って……もっと殺生丸さまの奥方らしくせんか」
「あっ、それって前も聞いたような」
「あほっ」
 邪見はもういちど溜息をついた。りんには分からないかもしれないが、この屋敷に出入りするのはなにかと曰くつきの妖怪も多い。偏屈だったり、群れるのを嫌う者だったり、ひと癖ありそうな者ばかりだ。邪見など、凍りつくほどに肝を冷やしたことも一度や二度ではない。
(まったく、こやつは恐れを知らんな。……ひょっとすると酔狂な者に好かれる性質なのかもしれん)
 そんなことを考えるうち、つと殺生丸の顔が脳裏に浮かび邪見はあたふたとした。


 りんは邪見をつつく。
「ねーねー。そんなことより火、点けちゃうよ」
 もはや日は完全に暮れきってしまった。りんの目には、もうほとんど真っ暗に見えているだろう。
「おお、よし。いいぞ」
 りんが火種を近づけると、小さな焔はジジジ……というかすかな音を発して燈芯に燃え移った。すると急にふわりと周囲が明るくなる。沈んだがはずの日輪が、そこにだけ戻ってきたようだった。
「わぁ、明るいね」
 灯籠を覗き込んだりんの頬に、あたたかな火の色がうつっている。その表情はしっとりと優しく、邪見は思いがけないものでも見たように「ほおっ」などともらしたものだった。
 りんはそれを耳にすると、灯りに対する賞賛だと思ったのだろう、嬉しそうに顔を振り向けた。
「ね、なんだかほっとするでしょ」
「おっ? ……ふ、ふむ、そうかもしれんな」
 りんは夜空を仰ぎ見た。
「殺生丸さまにも見えるかな」
「さっきも言っただろうが。殺生丸さまにはなーんでも見えとる」
「早く帰ってこないかなぁ」
 つられて邪見も空を見あげた。ここに立つりんも邪見も、この人里離れた屋敷も、空の上から見れば小さすぎるほど小さい。灯篭の灯りひとつ、ちっぽけなものだ。こんな小さな光など、あってもなくても殺生丸には同じだろう。だがこの不思議と温かい光を見ていると、まるきり無益というわけではないような気がした。
(いかん、いかん。わし、りんのやつに影響されてないか?)
 邪見はぶるっと首を振ると、口うるさくわめいた。
「もう部屋に戻るぞ。体を冷やして熱なんぞ出されたら、わしが叱られるんじゃからな」
「はーい。殺生丸さまがお戻りになるまで、灯籠しまわないでね」


 深い濃紺の森に小さなあかりが灯った。それは包むような闇に抗して、いとしい者のいる場所を示している。地上に瞬く星のごとき光は、ここに戻る者の目にどんなふうに映るだろうか。


< 終 >












2011年11月19日UP
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