【道遥か】


 雲の流れが早い。風は木々の間を抜けると、ごうと音を立てて空をゆるがした。
「嵐が来るのかな」
 りんは風に舞いあげられる黒髪を手で押さえた。
「ふむ、野分けの風じゃろう」
 ざわめくように灰色の雲がひしめき集まっている。邪見は「安全な場所を探さねばならんぞ」とりんを急かした。


* * * * * * * * * * * *


 さいわいにも岩と大木に守られた洞を見つけ、その日は野宿となった。この季節、強い雨風を伴った風が吹き荒れることがある。その嵐が幾度か過ぎると、いよいよ秋がおとずれるのだ。
(しかし悪い時期にあたったわい)
 邪見は薄暗い洞の中で、金色の目をまばたきした。武蔵の国からりんを連れて旅して来たが、このひと月のうち野分けに遭うのはもう二度目である。そのたびに足止め、だ。
(ちーっとも前に進まんわ)
 邪見はちらちらと殺生丸の後姿を見あげた。こんな旅をいつまで続けるのだろう。行き先を定めてのことだろうか。訊きたくはあるけれど、その後ろ姿は峻厳な峰のごとくに思える。
(りんのやつも訊けばよいのに。『殺生丸さまの行くところなら、どこだって一緒に行くよ』、じゃもんな」
 能天気すぎるわい、と邪見は溜息をついた。
(こうなったらこの有能な邪見さまが訊くよりほかはないか……)

 老妖怪は腹をくくった。
「殺生丸さま、あの、おききしたいことが……」
 消え入りそうな問いかけに、殺生丸は「さっさと言え」といった態で短く視線をよこした。邪見はおそるおそる訊ねる。
「その……りんを連れて西へ向かっているのはよいのですが、行く先はもうお決まりなので?」
「ああ」
 殺生丸は短く答えた。
 口数の少ないあるじに仕えるのはなかなかに難儀だわい、と老妖怪は心の中でぼやいた。どこへ向かうのか、最初から教えてくれればこちらも気をもまずに済むものを……いや、今の今まで訊けなかったわしもわしだが。
「では、やはり御母堂さまのお屋敷に入られるということで?」
「いや」
 邪見は「んっ?」という顔をすると、金色の目をぎょろぎょろさせた。


 ちょうどそのとき、りんは阿吽の荷や鞍をはずしているところだった。するとひきつったような邪見の叫び声が洞の中に響きわたったのである。りんは手にとった荷物を思わず取り落としそうになった。
「どうしたの邪見さま」
「大臣の地位が、天空のお屋敷が……!」
 駆け寄って見てみれば、目が明後日の方向をさまよっている。りんは老妖怪の肩をつかむとがくがくとゆさぶった。
「邪見さまってば! しっかり!」
 すると彼は術からさめた者のように目を見開いた。そしてりんにすがったかと思うと、おいおい泣きはじめたのである。
「すぐだと思っておったんじゃ、すぐに殺生丸さま帝国が完成すると思うておったんじゃ。なのにわしの辛抱も水の泡じゃ〜!」
「えー、わけわかんないよ!」
 りんは困って殺生丸へ視線を向けた。察するところ、今しがた殺生丸と邪見の間でなにかあったのだろう。
 すると殺生丸はこちらへやってきて、「ごん!」と老下僕の頭に鉄拳をお見舞した。
「うるさい、邪見」
「もう、殺生丸さまも!」
 りんは溜息をついた。


 それからややあって、りんはそのあらましを把握することができた。
「要するに、邪見さまはみんなで御母堂さまのお屋敷で暮らすって思ってたんだね」
 傍目にも落ち込んでいるらしいのがよく分かる邪見は、しょんぼりと頷いた。
「殺生丸さまは爆砕牙という立派な刀を得たんじゃ。化け犬の長として、誰一人として文句のつけようのない、立派な大妖怪におなりなんじゃぞ。あの城のごとき屋敷にあるじとして乗りこんで、誰に憚ることがあろう」
 邪見は金色の大きな目をうるませると、ちーんと鼻をかんだ。
「そりゃあ、殺生丸さまはとっても強くて立派な妖怪だよね」
「そうじゃろ!? わしは殺生丸さまの一の従者じゃ。あの屋敷で大臣さまとか言われて、上げ膳据え膳の安楽な暮らしをするつもりじゃったのに」
 殺生丸を褒めているのか自分が安穏な暮らしをしたいだけなのかは判然としないが、とにかくがっかりを絵に描いたような邪見の姿は、少々哀れをさそった。
 可哀想に思ったりんは、そっぽをむいている殺生丸に訊ねてみた。
「殺生丸さま、本当に御母堂さまのお城には行かないの?」
「ああ」
 だとしたら、この旅はあてのない旅だろうか。風のように気まぐれに、ただゆき過ぎる日々だろうか。
(殺生丸さまと一緒ならば、それでもかまわないけど……)
 りんは問うた。
「殺生丸さまはどこへ行くの?」

 洞の外では、風が恐ろしいような唸り声をあげている。殺生丸は洞の先に見える山並みを、いや、そのもっと遠くを眺めているようだった。
 殺生丸は視線を戻すと、よく通る低い声で答えた。
「譲り受けられる物に興味はない」
「え?」
 りんと邪見は小さく声をあげた。言葉の意味をはかりかねてまごついていると、殺生丸は正面からこちらに向き直った。
「私に従いたいと思う者があれば拒みはせぬ。だが去る者は追わぬ。あの屋敷の者についても同様だ。私を真のあるじと自ら思うのであれば、勝手について来ればよい」
 邪見は文字通り飛びあがって異を唱えた
「そ、そんな悠長なことをおっしゃらずに、さっさとお屋敷に入ってしまえばよいではありませぬか」
「二度も言わせるな。譲り受けられる物に興味はないと言ったはずだ。わたしがそれにふさわしければ、おのずと形はついてくる。でなければ、そうならないだけだ」
「しかし……!」
「うわべだけの服従など、いらぬ」
 邪見はへなへなと座り込んだ。殺生丸は自らの力で道を切り開こうとしているらしい。それは、己自身の刀として爆砕牙を身の内から生じさせた経験から来る自負だろうか。邪見の安楽な生活はまだまだ先になりそうだった。

 主従のやりとりを聞きながら、りんは胸の前で掌をにぎりしめていた。なんだか大変そうだけれど、それは殺生丸に似合っているような気がした。
「楽をして国のあるじになれるというのに、わしは呆れてものも言えんわ」
「あれっ、邪見さま。もの言ってるよ?」
 まぜっかえすりんに「おまえはほんっとにのんきじゃな」と邪見は溜息をついた。
「殺生丸さまは今すぐにでも、化け犬はおろか、妖怪の総大将になれるほどのおかたなんだぞ。ああ、もったいなや」
 邪見はまだ未練たらたらの様子だ。りんは邪見ににじり寄った。
「ね、ね、殺生丸さまがみんなの総大将さまになるのって、いつ?」
「ふむ、二百年から三百年……いや、殺生丸さまならば百年かからんかもしれんがのう」
「百年、かぁ」
 妖怪と人を隔てる時の流れに、少しも寂寥の想いがなかったといえば嘘になる。それでもこの瞬間に一緒にいられることが嬉しかった。殺生丸はりっぱなあるじになるに違いなかった。幼い自分だってついて行きたいと心から思ったから。そうしてただの一度もそれを後悔したことなんてなかったから。

「はー、これから嵐になりそうだわい」
 邪見は洞の暗がりを仰ぎ見た。
「野分けだもの」
 すると老妖怪は唾を飛ばしてわめいた。
「あほっ、天気のことではない」
「ああ、そっか。邪見さまも忙しくなるね」
「うむ。殺生丸さまを慕って大勢の妖怪が集まるじゃろうし、戦いになることもあるだろうな」
 殺生丸の一の従者は重々しく腕組みをして唸った。
「まあ妖怪らしいといえば妖怪らしい生き方かもしれん。それにしても、りん。殺生丸さまは父君を超える大妖怪になられるぞ」
 りんは邪見がたじろぐほどに身を乗りだして、瞳を輝かせた。
「もちろんだよ。だって殺生丸さまだもん!」


* * * * * * * * * * * *


 その日、深更まで暴れに暴れた野分けは、翌朝になると小気味良い風と化して野山を渡っていた。
「いい風だね」
「わしはまだ吹っ飛びそうだぞ」
 周囲の様子を見たところ、今日はもう出立できそうである。りんは朝餉をとると、早々に旅支度を整えた。邪見は「今後どうするかはいいとして、目的地の確認をすっかり忘れておった」となどとぼやいている。
「訊いてみたら?」
「あほっ、昨日のでじゅうぶん寿命がちぢんだわい」
 それでもりんには、この老妖怪がうきうきしているように見えて仕方がなかった。
「あれっ、邪見さま寿命じゃなくて背がちぢんでるよ!」
「え゛!」
「冗談、冗談」

 邪見に追いかけられながら洞から顔を出すと、昨日の空からは想像できないような蒼穹が広がっていた。野分けの過ぎ去った空は、ことのほか青い。殺生丸は先に洞を出て、銀色の髪をなびかせていた。
「殺生丸さま!」
 りんが声をかけると、髪を風に舞わせながら殺生丸は言った。
「りん、邪見。私と共に来い」

――共に来い。それはさも当然だというように。


< 終 >












2011年9月9日UP
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