【早乙女】


 水の引かれた田に、若苗の葉がそよそよと揺れている。りんは頬に泥がつかないように、注意深く汗をぬぐった。両の手だけではない、足は脛まで泥まみれだ。
「おーい、そろそろ昼餉にするか」
「りんが手伝ってくれて助かるよ。おかげでなんとか間に合いそうだ」
 楓の村はこのところ誰もが大忙しだ。村人総出で稲の苗を植えるのである。おかげで家の中には人っ子一人いないというありさまだ。
「このぶんだと今日中になんとかなりそうだね」
「ああ、もうひと頑張りさ。りんも昼めし食べてひと休みしてくれ」
 そこには手伝いの者に昼餉が用意されている。農作業を手伝ってくれる者にはこうして食事を用意するのが慣わしで、とくに田植えともなれば豪華な食べ物が供されることもある。
「今日は大盤振舞いなんだ。小さいけど、まんじゅうもあるよ」
「本当!?」
「すごいだろ」
「うん、ありがとう! あたし、一度家に帰ってくるね」
 りんは自分のぶんの昼餉を胸にかかえ、ひとり家へと向かった。


「楓さま、楓さまー」
 小屋の中にも薬草畑にも、その人の姿はなかった。
「いないー」
 りんは上り框にちょこんと腰をかけた。
「楓さまに食べてもらおうと思ったのになぁ」
 りんは膝の上に包みをひらいた。めったに食べることのできない、甘酒で風味をつけた饅頭だ。楓は菓子のたぐいは嫌いではないらしく、たまにこのような馳走があると、あの謹直な老巫女がうれしそうな表情をする。りんはそんな楓を見るのが好きだった。
「じゃあ、お戻りになったときにびっくりさせてあげようっと」
 りんは手ごろな箱を選ぶと、中に饅頭を納めた。そうして宝物でもしまうように蓋をしたとき、入り口に掛けられた筵がばさりと音を立てたのだった。

「楓さ……」
 振り返ったりんは、そこに老巫女の姿があると思い込んでいたので、予想外の人物を目にして驚きの声をあげた。
「殺生丸さま!」
 粗末な小屋には似つかわしくない端然とした立ち姿に、りんは一瞬見惚れてしまった。気高い、とはこういうたたずまいを言うのだろう。
「なにを固まっている」
「ええと、殺生丸さまだなんて思わなかったから」
 りんは我にかえってあたふたとした。りんをこの村に預けてから足繁くかよった殺生丸であるが、集落の奥へと入って来ることはあまりなかった。やはり人間に会うのはわずらわしいらしい。
「ここに来るなんて、なにかあったの?」
「なにも」
 殺生丸は筵をくぐると、ごく自然に上り框に腰をかけた。
「もぬけの殻だな」
 りんは合点がいった。田植えは村の一大行事だ。小さな子供も手伝いにかりだされる。どの家の者も出払っているので、気軽に入って来たのだろう。
「みんな田植えで忙しいもの」
「知っている」
 りんは快闊な笑顔を見せた。
「見てたんだね」

 予想外のことではあるが、こうして殺生丸に会えたのがうれしい。
「殺生丸さまは田植えしたことないよね」
「ああ」
 今日はなんのご褒美だろう、おまんじゅうに殺生丸さま。
「田んぼは泥んこだから、こうやってね、袖はたすきをかけて、裾ははしょるんだよ。殺生丸さまはもこもこが汚れたら大変だね」
 りんは田植えの実演をして見せた。さすがに殺生丸の裾はしょりなど想像できないけれど、彼ならばきっと美しいいでたちに違いない、そんなふうに思ってしまう。
「ね、こうしたら袖も裾もじゃまにならないんだよ」

「気に入らんな」
 殺生丸は低く呟いた。気に入らない、そう言った殺生丸の表情は少しけわしい。
「殺生丸さまがくれた着物だったら大丈夫だよ。泥がつかないように気をつけて、ちゃんとたくし上げてるし。ほら」
 りんは裾をはしょったまま、くるりと回って見せが、殺生丸は溜息に近い息をついた。
 りんは首を少しかたむける。贈った着物がぞんざいに扱われていると感じたのかもしれない、そう思った。
「そっか、汚れちゃうよね。継のあたった着古しがあるんだ。着替えるよ」
 長持の着物を選り分けていると、殺生丸が口をひらいた。
「その格好のことを言っている」
 りんは振り返って殺生丸のそばにぺたりと座った。
「えー、こうしないと泥だらけになっちゃうよ。むかし邪見さまと一緒にこうやって魚捕りをしたときはなにも言わなかったのに」
「私の前でならかまわん」
 殺生丸はりんに顔を近づけた。相手の瞳の中に自分の姿が見える距離だ。
 りんは顔が火照るのを感じた。
「それじゃ田植えできなくなっちゃうよ」
 りんは抗弁しながら、殺生丸の瞳から目をそらすことができなくなっていた。少しでも身じろぎすれば唇と唇が触れ合いそうだった。
 殺生丸の心は、風の強い日の森のようにざわめいている。いつだったか、りんがいまより幼い頃、他の村の者に言い寄られたことがあった。そのとき感じた苛立ちに似ている。しかし今のこの焦燥感はなんであろう。
(……とうてい容認できぬ)
 その腕が、その足が、自分以外の者の目に晒されるのが許せない。露出した四肢からは甘やかな香を放つ。人には分からずとも、殺生丸には分かる。その香は殺生丸に眩暈するような感覚を生じさせて、おそろしい衝動をひきおこしてしまいそうだった。
 自分を見つめるりんの瞳と少しひらいたその唇から、もはや殺生丸は目を離すことすらできない。胸のざわめきは、くすぶる炎のように身のうちを焼いて殺生丸を惑わせる。どうすればそれを止めることができるのか、殺生丸は知らなかった。
「……気に入らん」
 二人の間に、沈黙が落ちた。


「おお、殺生丸ではないか」
 つかの間のしじまは老巫女の声で破られた。
「楓さま……!」
 老巫女の声で呪縛が解けたように、りんは腰を浮かせた。
「おかえりなさい……!」
 楓はそれに頷くと、薬草の入った背負い箱を「よいしょ」と下ろした。
「利吉の田んぼでぎっくり腰の者が出たのだよ。で、なにをしておるのだ二人とも」
 りんは理由もなくうろたえたが、「そうだった!」と思い出した。
「殺生丸さまが田植えの様子を見に来てくれたんです」
 りんはあたふたと殺生丸のそばから離れた。楓が帰って来てくれて、ありがたいと思った。なにしろ、どきどきしすぎて胸がやぶれてしまいそうだったから。
「楓さま、いいものがあるんだよ」
 りんは饅頭の入った箱を取ろうとした。その横を殺生丸が無言ですりぬけて出てゆく。
「殺生丸さま!」
 まだ話したいこともある、来てくれたお礼だって言っていない。りんは楓を振り返った。
「追いかけてくるね!」
 求める姿は、二つ先の畦道を過ぎるところにあった。白い妖毛が初夏の光の下に美しく映えている。りんは間近で見た殺生丸の端整な唇を思い出して、わけもなく震えた。なにも考えられなくなって、「殺生丸さま!」と心の中で叫んだ。
 りんは殺生丸の姿を追って走る。その姿を見送りながら、楓はひとり呟いた。
「もう子供ではないのだな、りん」

 楓が見送るうちに、りんは殺生丸の背中に追いついた。そしてしきりになにか話しかけているようだった。二人はそのまましばらく歩を進めていたが、殺生丸は振り返ると「ぽん」とりんの頭に手を置いた。白い袂が美しく揺れた。
 なにを話しているのかはもう聞こえなかったが、並んで歩く姿はまるで想いあう者同士だ。りんが殺生丸を見上げている。遠目ではわからないが、その表情を想像することは容易だった。きっとりんは磨き上げた黒曜石のように、きらきらとした瞳をしているはずだ。そして殺生丸はりんにだけ見せる眼差しを返すのだろう。
 老巫女は寂しいようなあたたかさを胸に感じて、小さく息をついた。
(行く末を憂えることよりも、信じてみたくなるな。お前たちを)

 田植えの済んだ水田に、青い空と流れる白い雲が映っている。それは初夏の風がたてるさざなみに消えては映り、映ってはまた消えた。その水面に殺生丸とりんの歩む姿が映し出される。妖怪の姿はのどかな田園風景の中に、しばらくのあいだ留められていた。


< 終 >












2011年6月25日UP
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