【蜜つつじ】


「きれいだね、殺生丸さま!」
 りんは阿吽の背から声をあげた。眼下には美しく彩られた山の頂が見える。
「殺生丸さまが言ってた、見せたい場所ってここ?」
 りんが訊ねると、殺生丸は頷いて阿吽を着地させた。
 降り立つと、山肌は朱色の迷路のように花木に覆われている。躑躅(つつじ)の大群落だ。幾千ものあかい花が、初夏の光に輝いている。
 りんは躑躅のあいだを歩きながらあちこち見まわして、すっかり心奪われた様子だ。
「びっくりだねぇ、邪見さま。お山が全部お花なんだもん」
「うむ、まるで夢の中のようじゃな」
 茂みに埋もれながら邪見が答えた。彼の目線から見れば、まさしく花の天蓋である。

「りん、殺生丸さまはお前のためにわざわざ連れて来てくださったのだぞ。お礼を申しあげろ」
 邪見が声をあげた。どこからか小さく「はーい」という声が返ってくる。それにつけても……と邪見は思い巡らせた。
(殺生丸さまは昔からりんを大切にしておったが、最近はより一層お心を掛けられとるわい。このあいだは桜を見せに連れだして、その前はたしか堅香子の花じゃったかな)

「……って、りん! どこにおる?」
 邪見は茂みをがさがさいわせて背伸びした。
「ここだよー」
 いつのまにかりんは屈んでいたらしく、ひょっこりと躑躅の茂みから顔を出した。
「まったく、お前はなにをしとるんじゃ」
「蜜、吸ってるの」
 もごもごした声だ。りんはあかい躑躅の花を摘んで、その付け根を咥えている。
「ここのところに蜜があるんだよ」
 りんはもうひとつ花を摘んで差し出した。邪見は「こりゃっ!」と声をあげる。
「花なんぞ喰いおって。奥方さまになったというに、お前ときたら村娘と変わらんではないか。もっとこう、気高く、威厳をもって……まぁ御母堂さまほどの高貴さはお前には無理だろうが、もう少し奥方としての……」
 滔々と小言をはじめた邪見に、殺生丸は瞳だけをそちらへ動かした。
「邪見」
 邪見は「はっ」とも「ひゃっ」ともつかぬ声を出して飛びあがった。
「わし、阿吽と水場を探してまいります!」
 そう言うが早いか、見るまに木立の向こうに消えてしまった。
 邪見はあるじの姿が見えないところまで来ると、こそこそと阿吽に語りかけたものだ。
「まったく、祝言をあげられてからというもの、ますます甘いわい。そうは思わんか、阿吽よ。そう思うじゃろ、ん?」


「水場、すぐに見つかるといいね」
 りんは殺生丸を振りかえって笑った。
「急だったから、お水もお弁当も持って来なかったんだよね」
 そうだ。唐突にこの山の躑躅を思い出したのだ。空を翔ける殺生丸は、敵となる妖怪ばかりではなく、ときには美しい花咲く場所を見つけることがある。数日前はまだ蕾も多かったが、今日は折りよく見頃のようだ。昔は目もくれなかったものだが、りんが喜ぶのならば花というものも有意義だという気がする。

「蜜、か。腹が減ったのか」
「んー、そうじゃないけど、おいしいんだよ」
 りんは躑躅を咥えながら答えた。口に花が咲いたように見える。
「あまいー」
「そうか」
 小娘のような行為だが、殺生丸はとがめる様子もない。りんはいつまでたっても童のようでいて、妖怪の来客を迎えるときなどは泰然自若とした気品があり、その落差に殺生丸は不思議なものでも見るような気持ちになるのだった。しかしそのどちらもがりんという器なのだろう。

 当のりんはというと、相変わらず蜜を吸うのに夢中になっていたが、急にちょっとだけ真面目な顔になった。
「でもね、躑躅は毒がある種類もあるから気をつけなきゃいけないんだ。鬼躑躅の毒は体が引きつって息が出来なくなることもあるんだって」
 殺生丸は眉根を寄せた。
「もう喰うな」
「ここの躑躅は大丈夫だよ。楓さまに見分けかたを教わったの。毒があるのは、葉っぱがもっと……」
 りんは殺生丸に小枝の葉を指し示したが、毒の有無などは妖怪の本能でわかる。彼がりんに及ばないのは、その毒が人間にとってどのくらい害になるのか見当をつける事ぐらいだろう。
 殺生丸には無用の知識かもしれなかったが、りんは一通り説明をして頷いた。
 「というわけで」、りんは言葉を継いで新しい花を咥える。
「ここのはへーきなの」
 口をもぐもぐさせて言う。
「あてになるか」

 その口調ははなはだ不満げだ。脆弱な人の身であるにもかかわらずのん気ではないか、と大妖は思う。
 殺生丸はりんに顔を近づけると、あかい躑躅の花を己の唇で咥えて取りあげた。
「あー!」
 りんは口をとがらせた。しかし殺生丸は取りあわない。ふっと羽根でも吹くようにして花を捨ててしまった。
「まだ甘いのにー」
「腹でもこわされては困る」
 殺生丸はりんの頬に掌を伸ばした。落ちた花を勿体なさそうに見ていたりんは、その手に促されて視線をあげた。眩しそうに仰ぎ見る黒い瞳の中には、銀の髪の妖怪が映っている。あどけなさの残る小さな唇には、花を咥えていたからだろうか、つややかな光が宿っていた。

 殺生丸は取りあげた躑躅のかわりに、己の唇をおしつけた。
(甘い……)
 そう殺生丸は思った。それはりんの口中に残る蜜だろうか、それともりん自身だろうか。
 殺生丸はりんの唇を優しく何度も吸った。強引でいて柔らかな感触に、りんは目がくらんでしまう。
「ここのは毒なんて無……」
 小さな抵抗は、無言の口づけで封じられてしまう。りんは目を閉じた。暗いはずの瞼の裏に、ほのあかい躑躅の花が見えた気がした。それはこの山を照らす日輪の残像だったろうか。


 陽射しが明るい。咲き誇る花たちが初夏の光に音もなく照り映えている。
 言葉もなく、ただお互いの感触とぬくもりが混じりあう。瞼に映る躑躅は次第に広がって、りんの思考をやわらかな朱色の帳で包みこんでいった。


< 終 >












2011年4月25日UP
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