【冬胡蝶】
数日つづいた鈍色の空が、今日は青い色を覗かせている。風はわずかにぬくみを宿し、木々は枯色の中に瑞々しい若芽を隠しながら、やがて訪れるであろう春を待っている。
りんは畑の作物を選りにかかるところだった。夕餉の材料にするのだ。楓は薬草のほかに少々の青物も植えていて、野菜を穫ってくるのはりんの新しい仕事になっていた。
「今晩は鍋にするって言ってたなぁ。じゃあ、これがいいかな」
りんが野菜とにらめっこしながら笊に穫り入れていると、ふわりと空気の動く気配があった。
「殺生丸さま!」
りんは驚いて声をあげた。一生懸命選んでいたから、ちっとも気づかなかったのだ。
「変わりないようだな」
「うん! 殺生丸さまは? あっ、菜っ葉ふんじゃだめだよ」
そんなふうに話しながら、りんは殺生丸とともに畑が見おろせる小さな丘へと向かった。そこは見晴らしがよくて、りんもお気に入りの場所だった。
「昨日まで寒かったよね。今朝はちょっぴりあたたかくなったけど。今日は鍋の料理が食べられるんだ。それでこれ入れるの。体がほかほかするんだよ」
「そうか」
りんは笊を抱えてちょこんと座った。殺生丸さまが「人間の食い物」を食べるのならおすそわけしたのになぁ、などと考えながら、話したいことがたくさんあってわくわくしてしまう。
「山鳥を入れることもあるんだよ。ご馳走なんだ」
「ふむ」
「邪見さまは食べるかな? 楓さまに頼んで、すこし包んでもらう?」
「いらん……っくしゅん!」
「え?」
りんはあたりを見まわした。自分と殺生丸のほかには、確かに誰もいない。
「えーと、さっきのくしゃみ、殺生丸さま?」
「…………」
そのひとを見てみれば、心なしか不本意そうな表情である。
「風邪ひいちゃったの!?」
「っくしゅん!」
もうひとつおまけ、だ。りんは「殺生丸さまも風邪ひくんだ」と妙に感心したようすで白皙の大妖怪をみつめた。どんな妖怪よりも強くていつも凛としている殺生丸の、意外な一面を見てしまった。それにくしゃみをするなんて、大発見だ。
すると、殺生丸はすかさず正した。
「勘違いするな。その笊だ」
「え?」
りんが手にした笊のなかには、さきほど穫ったばかりの青葱が入っている。
「その臭いは合わん」
「え、この葱?」
(そういえば犬夜叉さまが何かの臭いで、急にぱたんと倒れてしまったことがあったっけ)
りんは村で起きたその騒動を思い出した。そのあとしばらく、犬夜叉は鼻が利かないといって妖怪退治を休んだものだった。このくしゃみも、あのときと似たような現象なのだろう。
「犬夜叉さまも殺生丸さまも、お鼻がいいね」
りんが感心して言うと、殺生丸は露骨に顔をしかめた。
「一緒にするな」
弟の名を出されたことで、さらに不機嫌そうだ。だが、りんはいっこうに恐れ入る気配はない。
「ね、ね、殺生丸さま」
「……何だ」
殺生丸が面倒くさそうに答えると、りんはその膝ににじり寄って声をひそめた。
「みんなにはないしょね」
「?」
「殺生丸さまが葱でくしゃみがでること、りんと殺生丸さまだけのひみつ」
そう言うと、りんは目を輝かせた。
殺生丸はわずかに嘆息した。どうもおかしなことになったものだ。りんは真剣な面持ちで見あげてくる。
「殺生丸さまっ」
「…………いいだろう」
「だれにも言わないよ。ぜったい」
殺生丸は頷いた。くしゃみとやらが出るとか出ないとか、彼にとっては正直どうでもよくはある。だがりんの一生懸命な様子を見ていると、ふしぎと悪い気はしないのだった。
彼はそれが褒美とでもいうようにりんの頭に手を置いた。りんは殺生丸の掌の下でご満悦といった面持ちだ。ほかのどの人に頭を撫でられるより、誇らしく心地よかった。
りんはしばらくそうやってにこにことしていたものだが、のどかな静寂は突然破られた。りんがはじかれたように声をあげたのである。そうして「あ!」という顔のまま殺生丸を振り仰いだかと思うと、気持ちのよい大きな掌の下をまたたく間にすり抜けてしまった。
「葱! いけないよね、うちに置いてくる!」
そういうが早いか、返事などおかまいなしに駆けて行ってしまった。
(別にかまわんのだが……)
殺生丸は頬杖をついてそのうしろ姿を見送った。りんの着物は見え隠れに田畑や垣根を過ぎてゆく。それは胡蝶の舞う姿によく似ていた。
(『うち』か……。ずいぶん馴染んだようだな)
殺生丸はぼんやりとそんなことを思った。
やがて少女は同じ道をまた戻ってくる。その姿を視界に捉えながら、殺生丸は蝶の舞う春を思い浮かべた。この里もほどなく命の踊る季節を迎えるのだろう。花が咲き競い、明るい陽射しに包まれるその季節を、りんは喜ぶに違いなかった。
< 終 >
2011年1月21日UP
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