【雪催い】
りんが殺生丸と離れて暮らすはじめての冬、村はしんとした静けさの中にあった。村落をかこむ藍鼠色の山並みは、昨晩降った雪で白く色を変えている。近頃はとりわけ寒さが厳しく、山々は根から凍りついてしまったようにも見える。
人里に預けてからというもの、殺生丸は頻繁にりんの元を訪れていた。そのたびにりんは近ごろ起こった出来事をつぶさに話して聞かせるのだった。おかげで殺生丸は、朝餉の汁の実のことにはじまり、りんが最近仲良くなったという女の童のことや、村の暮らしのいくつかを知った。
「それでね、それでね、雪で外に出られないときは、草鞋や籠をつくる仕事もあるんだって。りんも習うんだよ」
おさない日に村の子供らしい立場から隔絶されたりんは、こういった仕事がめずらしく感じられるようだ。
とはいえ、里に預けられた当初はこのように生き生きとした姿がもう見られぬのではないかと心配されていたのだ。殺生丸がりんを置いて消えた日、りんは大泣きに泣いた。夜になると隣で寝ている楓を起こしたくないと思ったのだろう、掛け衣にくるまって声を殺して泣いた。深更になってようやく眠りに落ちたのを、楓は罪悪感にも似た気持ちで見守ったものだった。
いま、りんは教わることが楽しかった。また一緒に旅をするとき、きっと役にたつ。だから何を覚えるのか、そして何を覚えたか、報告するのが嬉しくてならない。
「じぶんで草鞋を作れるようになったら、あんしんだね。はだしだと山道は痛いもん。替えの草鞋も持ってれば、だめにしてもすぐ履き替えられていいよね」
どうやら、何やらりんの中で計画が進んでいるらしい。殺生丸はただ黙って聞いている。
「あっ、たくさんできた分は売りに行くんだって楓さまが言ってたよ。じょうずに作れるようになったら、りんのも売れるだろうって」
りんは日を決めて立つ物売りの市のことを話した。まだ自分は連れて行ってもらっていないけれど、今度の市には楓と同行する予定なのだと言う。
「着物とか食べるものとか、いろんなものを売ったり買ったりするんだって。商いをする人もたくさん来るって言ってたよ」
りんは目を輝かせながら、まるで不思議な国の話でもするように、市がどういったものなのかを話して聞かせるのだった。
「それでね、毎年来る物売りのなかに、楓さまの顔なじみの商人がいるんだって」
「京から運んできたきれいな着物があるから、村のあねさまたちはそれ見に行くのが楽しみだーって言ってた」
大半は殺生丸には興味のない人や物の話だ。だがこの熱心とは言いがたい聞き手に対して、りんは親愛の情をこめて語りかける。
その心地よいさえずりを聞くうちに、殺生丸はある動作に気がついた。りんが何かに気をとられているらしく、吸いよせられるようにこちらに視線を動かしてはまた戻すことを繰りかえしているのだ。どうも無意識らしいが、まったく落ち着きのないことだ。
「さっきから何を見ている」
殺生丸はなかば呆れ気味に問うた。するとりんは怪訝そうな顔で首をかしげていたが、「あ!」と小さく叫んだ。そうして屈託ない笑顔を見せると、殺生丸の傍らに目をやった。
「とってもあたたかそうだね」
りんの視線の先へ目を落としてみると、そこにあるのは己の白い妖毛である。
(……凍えていたのか)
あたらめてりんのようすを見てみれば、たしかに小さな手足は血の気も失せて、五体は縮こまって固まったように見える。ぎゅっと握り締めた手は白い石のようだ。
この妖怪は寒さに対して身にしみるような実感がない。むろん殺生丸とて気温の上下は分かる。しかしそれは意識の上にあげるまでもない、ただの現象の変化だ。だが人間ときたらどうだろう、これしきの寒さで体は震え、放っておけば死に至ることもある。現にりんは、いつもと違って少々心細そうにも見える様子で小さくなっているのだ。
殺生丸はわずかに身を揺すった。
――ふわっ。
りんは目を数回ぱちぱちさせた。とつぜん自分の上に繊細な手触りのものがふさり、と降ってきたのだ。殺生丸の妖毛である。
「うわぁ」
りんは思わず顔をうずめた。こうやって掛けてくれたということは、触ってもかまわないということなのだろう。ふわふわの繊毛は信じられないくらいやわらかく、暖かかった。
妖毛を伝って、りんの手足がほんのりと温みを取りもどし、こわばった四肢がやわらいでゆくのが分かる。まったく、人間とは厄介なものだ。だがこの小さな娘に関してはそう煩わしいと思わないのが不思議だった。
りんはほっと息をついた。手や足がとても寒くてたまらなかったから。
「ありがとう、殺生丸さま」
見上げるりんはいつのまにか妖毛にくるまって、まるで雪のだるまのような格好だ。
「これならずっとお話していても寒くないね」
となりに現れた白い物体を、殺生丸は不思議なものでも見るような気持ちで眺めていた。
(今度はりんの寒さを防げるような物を手土産にするか……)
しかし、それはいったいどのような物だろう。着る物などが必要だということは分かるが、興味の外であったがゆえに殺生丸はそれに不案内だった。ましてや季節に応じた仕立ての種類や身分に応じた布地があるなど、知ろうはずもない。
「りん、必要な物があれば言え」
この大妖怪がかくのごとき些事を考えあぐねていると知ったら、りんは驚くに違いない。りんにとって殺生丸はいつだって卓越した存在だったから。しかし不得手というものは彼にも存在するのだった。
「あたしに要る物?」
りんは首をかしげる。
「うーん、思いつかないなぁ」
「寒いのだろう」
そう殺生丸が促すと、りんは笑った。
「もうへいき。殺生丸さまがいるもん」
りんは殺生丸の白毛を抱く手にきゅっと力を込めた。金色の瞳がちらりとりんを見る。
「雪が降ったらもっと凍えるぞ」
寒さのせいで指に力が入ったと思ったのだろう。だがりんは聞き分けのない児のように首を振った。黒い髪がふさふさと揺れる。そうして、少し考えてから口をひらいた。
「殺生丸さまのこれ、あったかい」
そう言ってふわふわの妖毛に顔をうずめた。
「だから、もうなんにもいらないよ」
くぐもった声が震えているようだった。
そう、何もいらないのだ。そばにたい、ただそれだけ。
りんの視界を、雪野原のような白毛と鈍色の冬空が二分している。いまにもまた雪が降りだしそうな空の色だった。
殺生丸はりんの頭のある位置にぽん、と手を置いた。人里に預けてもりんが自分のことを忘れていないのが正直なところ嬉しくもあった。
「次も、今日のように寒ければ貸してやる」
静かに殺生丸は答えた。それはまたこの村を訪れる、そして冬の、そう遠くない日であるという意味を持っている。聡いりんはそれを悟ると顔をあげた。
「ほんとう?」
「ああ」
りんは殺生丸がその場しのぎの嘘をついたりしないことをよく知っていた。
いまはわがままを言うのはやめて、出来ることをしよう。今度来てくれたときに、どれだけたくさんのことを覚えたか、胸を張って報告するのだ。
りんはふわふわの妖毛を抱きながら、途中になってしまった物売り市の話を再開した。殺生丸はまたさっきまでのように、聞くともなしに聞いている。
並んだ二つの後ろ姿に、ちらちらと白いものが落ちてくる。いつからだろう、どうやら本当に雪が降りはじめたようである。
< 終 >
2011年1月21日UP
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