【痕】
軒先に晩秋の陽ざしが差し込んでいる。りんは陽だまりの中で大きく伸びをした。軒には何本もの大根が吊るされて秋風に揺れている。この典雅な屋敷には不釣り合いにも思える光景だが、ここに住むりんのおかげだろうか、不思議とそれらは調和して見えるのだった。
「殺生丸さま。あたしの畑でとれた大根、食べてみますか?」
「いらん」
殺生丸の返答は全くもって素っ気ない。しかしりんは落胆した様子もなかった。「そうだね、なんだか似合わないもんね」、などと言って笑っている。
殺生丸と祝言を挙げてから、りんは屋敷内に小さな畑を作った。お屋敷で野良仕事など言語道断だと邪見は文句を言ったが、主の「好きにしろ」の一声には逆らえるはずもない。りんは少しづつ鍬を入れて種をまき、薬草のほか野菜もいくらか穫れるようになった。今では邪見もまんざらでもない様子で収穫を手伝ったりしている。
「そろそろ冬支度だなぁ」
軒先には陽が差し込んであたたかく、つい眠りを誘われてしまう。今日は「小春日和」というやつだ。りんはもう一度「うーん」と伸びをした。袖口からしなやかな腕があらわになる。
その瞬間である、殺生丸が唐突にりんの腕を掴んだのは。まるではじかれたような動作だった。
「な、なぁに、殺生丸さま」
りんはどぎまぎしながら殺生丸の顔を見あげた。殺生丸の視線はりんの手首に注がれている。凝視するその表情は真剣そのもので、りんの問いなどまるで聞こえていないようにも見える。
「ええと、殺生丸さま」
しばらくしてりんが上目づかいで訴えた。
「腕が寒いです」
すると、やっと気づいたというような様子で殺生丸は手を離した。りんは小さく首をかしげる。
「大丈夫だよ。今日は痣なんてないよ」
そう言って微笑むと、とん……と殺生丸の肩に寄り添った。
(あのときのことを思い出したのかな……)
りんは目を閉じると、追想にふけりはじめた。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
それは、祝言を挙げて幾日も経たぬ夜だった。
押しよせる波に洗われる小石のように、激流に落ちた一枚の木の葉のように、りんの躰は翻弄された。想いは激しく、狂おしく、殺生丸を駆り立てた。待ったのだ、そう、ずっと待ったのだ。殺生丸には加減というものが分からない。狂おしい想いのままにりんと交わった。この声も、この肌も、この心も、すべてむさぼってしまいたい。ほとばしる情念を抑えきれぬまま、殺生丸はりんを褥にねじ伏せた。
夜が明けようという刻に、ようやくそれは終わった。引き潮が冥い海へと躰ごとさらっていくように、りんの意識は遠くなる。やがて、胸を上下させる苦しげな喘ぎも鎮まって、紅潮した頬も穏やかな桃色にやわらいでゆく。眠っているのか放心しているのか定かではないその顔は、あどけなくさえあった。そのとなりには、銀色の髪を泉のように這わせて、殺生丸が身を横たえている。
焔のように心を焦がした。自制をも忘れた。殺生丸はりんというこの娘のなにもかも、運命さえも手の中にあって欲しいと思った。叶わぬことと知りつつもなお、狂おしくそれを求めた。りんの中にそれがあるとでもいうように。
当のりんは今、まるで無垢な表情でおだやかに息をしている。それを見れば、殺生丸を襲った狂おしい情念も洗い流されるような気持ちになるのだった。
(不思議なものだ……)
殺生丸は湖のように凪いだ瞳でりんを眺めていたが、ふとその目にとまったものがあり、目をすがめた。投げ出されたりんの腕へと手を伸ばす。りんの手首に、昼間にはなかった薄赤い痕ができているのだ。殺生丸はその痣に指先を触れた。それは幼な子が他人の傷に恐る恐る触れる様子によく似ていた。
殺生丸はためらいがちに痣をなぞった。りんはその感触に意識を呼び覚まされたのだろう、「殺生丸さま」とかすれた声でささやいた。
「……痛むか」
りんは殺生丸の言う意味がよく分からなかった。ただ、間近にある殺生丸の表情を見て、なにか自分のことを心配してくれているのだと直感した。冷たいほどのその容貌が、どこか困ったような、すまなさそうな面持ちをしているのがりんには分かる。
「どうしたの、殺生丸さま」
りんはゆっくりとした口調で訊ねた。まだ頭も躰もぼんやりしている。殺生丸は目を閉じると、りんの手首にそっと額をつけた。まるで祈るような姿だった。それでりんは、自分の手首に痣が出来ているのだと初めて気がついたのだった。
りんは殺生丸のほうへと躰の向きを変えた。全身がひどくけだるく重い感じだった。
「これ? 平気。そんなに痛くないし」
りんは手首をごしごしと擦って見せた。そうすれば殺生丸が安心するような気がしたのだ。だが殺生丸とて痣がそんなことで消えるはずがないのは知っている。殺生丸の眉間に苦悶の想いが浮かんだ。この痣を作ったのは、自分だ。りんを組み敷いたときに、力任せにその手首を押さえつけたのだ。あのとき殺生丸は分別を失っていた。りんが脆弱な人の子であるということは、彼の意識の中から消し飛んでいた。
「……やせ我慢をするな」
「うーん、じゃあ痛くなったら薬草貼るよ。だから、大丈夫」
確かに痛々しい痣ではあるが、何日かすればすっかり元に戻るだろう。いま、りんは若く、健康だった。殺生丸がつけたのであればただの痣より時間はかかるだろうが、治らないわけではないし、仮に治らなくても殺生丸がつけた痕ならば構わないと思った。
りんは殺生丸の額からそっと手首を離すと、今度はその頬に自分の頬をあわせた。まるで動物がじゃれあうような仕草だった。
りんはいたずらっぽく目を輝かせて微笑む。
「あたし知らなかった。殺生丸さまってとっても心配性なんだね」
そう言って金色の瞳を覗きこんだ。思わぬことを言われて見開かれた妖の双眸は、やがてゆっくりと閉じられた。
「……少し寝ろ」
* * * * * * * * * * * * * * * * *
(そうだ、それを殺生丸さまは思い出したんだ)
りんは追想の中で、殺生丸の行為の理由を見つけた。昨夜も彼らは肌を合わせた。目がくらむほどに、より深く。それで、また痣を作ったのではないかと殺生丸は思ったのだろう。
(殺生丸さまはやさしいなぁ……)
りんはあのときのように、殺生丸に頬をすりよせた。そして「心配性」だと言われたときの彼の表情を思い出して、くすくす笑った。
「あのとき殺生丸さま、ちょっぴり怒ったでしょう」
「ふん」
殺生丸はそっぽを向いた。だがりんには冴え冴えとした冷たい容貌にひそんだものが分かる気がするのだ。いま殺生丸の表情が「かわいらしく」見えてりんは微笑んだ。りんの大切なひとがりんにだけ見せる表情だった。
小春日和の陽ざしは、綿のようにあたたかい。
「ここで眠る気か」
寄りかかったままのりんに、殺生丸は呟いた。
「うーん、とっても気持ちがいいんだもん」
りんはともすれば落ちそうになる瞼としばし戦っていたが、ついに負けてしまったらしい。昨夜はあまり寝かせてもらえなかったのだから無理もない。おだやかな顔で、もう寝息を立てている。
「……少し寝ろ」
殺生丸はりんを抱きあげた。殺生丸の白い袂が風をはらんでひるがえる。
りんは抱きあげられても一向に気づかぬようだ。小さな唇を少しあけて、揺れるがままに任せている。殺生丸は脆い花弁にでも触れるようにそっと口づけすると、美しい足取りで寝所へと向かったのだった。
< 終 >