【寄り道】
こと、こと、ことん。こと、こと、ことん……。りんの背負った荷物から小さな音がする。それはりんの歩く調子に合わせて、乾いた軽やかな音を立てている。
「りん、なんとなからんのか、その音は。殺生丸さまのお耳障りだぞ」
「ごめんね、殺生丸さま。もうちょっとだから」
りんの背負った荷物の上には、小さな竹籠がくくりつけられている。その中身がりんの歩くのに同調して音をたてているのだ。籠の中には道中で見つけた薬草や薬茸の類が入れられている。あまり人の踏み入らぬ道を行ったせいか、りんは珍しい薬草を見つけることができた。なかには阿吽が見つけた吉祥茸もあった。これは万年茸とも云われ、古来より貴人たちがこぞって求めたという貴重な薬茸だった。
「阿吽の吉祥茸、きっといい値がつくよ」
りんが阿吽を振り返ると、双頭の竜が誇らしげにいなないた。さすが殺生丸の乗り物とあって、だだの妖獣とは出来が違うらしい。
「しかし、やっかいなことだわい」
邪見は双頭の竜を横目に見つつ首を振った。そもそもいま薬草なんぞを持って人里へ向かっているのは、りんの食糧が尽きたからにほかならない。以前旅をしていたときも畑泥棒を手伝ったりずぶぬれになって川魚を捕らえたり、邪見に言わせれば「それはもう語るも涙の苦行の日々」だったのである。それで食糧が尽きたと聞いたときは内心「また大変なことになった」と思ったものだが、りんは薬草と食べ物を交換するという対処法を提案し、邪見の不安を見事に打ち払ったのである。
しかしそのためには、りんを人里におろさねばならない。邪見にしても殺生丸にしても、人間相手に薬草の説明をし、その価値をもって食糧と交換して来るなど、とうてい出来はしないからだ。最初は邪見に食べ物を用意させるつもりでいた殺生丸だが、「できるだけ自分のことは自分でしたいんだ」と言うりんに結局は折れた形となった。
やがて、彼らの進む道は二手に分かれた。一つはこのまま山路を進む道、一つは人里へと下る道だ。りんは殺生丸を振り返った。
「殺生丸さまたちはここでちょっと待っててね。食べ物と交換したらすぐ戻って来きます」
留守番をする形になった妖怪たちに、りんは大きく手を振った。阿吽を連れて行くという案は実行されなかった。里の人たちが怖がるのを心配したからだ。
ひとりだけ小道にそれて歩いてゆくりんの姿は、どんどん小さくなる。
「おーい、りん! 吉祥茸も売ってしまうのか? 少し残しておいたらどうじゃー!」
邪見は万病に効く妙薬だという茸のことを思い出して、あわてて声をかけた。そんなに薬効のある茸ならば、万が一というときのためにとっておいたほうがいいのではないか。万が一というのはほかでもない。りんの命の炎が弱くなったときだ。
りんは振り返ると口に両手を当てて答えた。
「いまは食べ物のほうが大事だよ。吉祥茸はまた見つければいいよー!」
そう叫んでりんの姿は坂道の下に消えてしまった。
りんはのんきすぎる、薬茸を残しておくようにともっと強く言うべきだっただろうか。邪見は少し後悔していた。だがりんのことを最も案じているのは殺生丸であろう。この主も自分と同じように思っているだろうか、そんなことを考えながら邪見は主を見あげた。するとその心の声が聞こえでもしたのだろうか、殺生丸は一言「かまわぬ」と呟いた。殺生丸はりんの消えた道の彼方をじっと眺めている。りんに何事かあれば、疾雷のように駆けつけるだろうことは明らかだった。
殺生丸たちと離れると、りんは荷物を背負い直して「ようしっ!」と掛け声をかけた。できるだけたくさんの食べ物と交換して、これからの旅に備えなければならない。
りんの行く山道が、しだいに緩やかな下り坂になった。視界がひらけて小さな村落が見える。りんはもう懐かしいような感覚を覚える畦道を歩いて、人の姿を見つけた。
「すみません、薬草と食べ物を交換して下さるかたはいないでしょうか」
りんは野良仕事をしている女に声をかけた。その女の畑はりんの目から見てもすみずみまでよく手入れされている。こんなに堅実に耕作をしている人は少なくとも悪だくみで生きている人ではない、りんはそう見当をつけたのだ。
「薬草……かい?」
見慣れぬ者に不審そうな顔をしていたおかみさんだったが、りんが薬草を見せると嘘は言っていないと思ったようだ。
「ちょっと待っておいで。あたしはあんまり詳しくないんだ。せがれを呼んでくるよ」
おかみさんはひとっ走りして、こちらも泥まみれの青年を連れてきた。彼はおかみさんよりは薬草の心得があるらしく、りんの持った籠を見て、「こりゃあ、たまげた。ご城下に持っていったらいい値がつくよ」とりんに言った。だが、りんにはゆっくりしている暇はない。
「じつは一緒に旅をしているひとを待たせているんです」
「そうか、でもこんな値の張る薬草と交換するものなんて、うちにはありゃしねぇ。おれ、大急ぎで郷主さまんとこ行ってかけあってくる。ちょっと待ってな」
そう言ったかと思うと、りんの返事も待たずに行ってしまった。
「やれやれ、いいところを見せようとしてまぁ。すまないね、ちょっと待ってやってくれないかい」
「こちらこそ、野良仕事の邪魔をしてしまってごめんなさい」
「いいのさ、ちょうどひと休みしようと思っていたんだ」
おかみさんは畦道に腰を下ろすと、粗末な土瓶から湯冷ましを注いでくれた。
「あんた、旅をしているそうだけど、ひょっとして京にでも行くのかい?」
「京の都?」
「ああ。だってあたしらとは全然違うだろ」
おかみさんはりんの着物を指さした。村を出るときに着ていた小袖ではないが、これも殺生丸に貰った着物だ。一見簡素なようでいて、質の高いものだ。ただの旅人に見えないというのもわかる。
りんはかぶりをふった。
「行く先は……どこかなぁ」
「まさか、だまされているんじゃないだろうね」
おかみさんはさっと顔色を変えた。このあたりではあまり聞かないが、たちの悪い野伏りが人買いと組んで娘や子供をかどわかしているという噂も人々の口の端にのぼっていた。
「大丈夫です。小さなころからずっと知っているひとだから」
りんは微笑んでそのひとを思い浮かべた。そう、あたしが小さなころから、ずっとその背中を追いかけてきたひと。その広い背中を見ていると嬉しくて、ほっと心が穏やかになる。そして……胸が苦しくなる。近づきそうで触れられない、その数寸の距離に何が横たわっているんだろう。
「ふうん」
おかみさんは目を細めた。
「そのひと、あんたのいいひとだろ」
「いいひと?」
「想い人、ってことさ。恋仲だね、あんたたち」
りんは持っていた湯飲みを取り落としそうになった。
「違うよ、違う……と思う」
「でもずいぶんとそのひとを好きなんだね。そのひとのことを言ったとき、瞳が陽の差し込んだ湖みたいに……」
「ええと……!」
りんはしどろもどろした。「いいひと」?、「恋仲」? 楓の村でもそんな言葉を聞いたことがある。「恋仲」だという村人たちが睦まじく語り合っていたり一緒に歩いているのを幾度となく見てきた。「いいひと」と祝言を挙げて村を出た娘が、幼子を抱いて幸せそうに訪ねて来たこともあった。
あたしと殺生丸さまがもしもそうだったら、とてもすてきだなぁ。
村に預けられたばかりのりんは空想をめぐらせて、ほのかな憧れを抱いたものだった。それは恋というにはあまりにも幼く、空想に過ぎる夢だった。
けれど、りんは大きくなった。いろいろなことを学んだし、たくさんの経験をした。そして気付いたのだ、殺生丸という妖怪を想う気持ちが特別な「好き」に変わっていったことに。それは若草が芽を伸ばし、春ともなれば美しい花をつけるように、ごく自然にりんの中で変化していったのだった。
(いいひと、かぁ)
りんは両手を頬にあてた。頬が熱い。りんは目を閉じると、殺生丸の面影を瞼の下に思い浮かべた。
ひと休みしているうちに、青年が駆けながら帰ってきた。大きな包みを背負っている。
「郷主さまも大喜びだったよ。あの茸は殿さまに献上することになるだろう、ってさ。ああ、持っていける食べ物以外は銭に換えてもらった。このほうが便利だろ」
「ありがとうございます」
りんは丁寧におじぎをした。青年がほうけたような顔でそれを見ている。りんは並外れた美女というわけではなかったが、生き生きとした表情は人を惹きつけずにはいなかった。それにまだ年若いのにひとりで交渉に来るとは肝の据わった娘だと感嘆もしていた。「うちで足を休めていったらいいのに」と彼は言ったが、りんは殺生丸のそばに少しでも早く戻りたかった。これが夢なら覚めてしまわないように。
りんは食べ物を大きな布で包むと背中に巻いた。包みが大きすぎるせいで、まるでかたつむりみたいに見える。
「おい、大丈夫かい?」
「平気です。慣れてるから」
交換に行ってくれたお礼に銭でも食糧でも取ってもらおうとしたが、ふたりは頑として受け取ろうとしない。りんは丁寧に頭を下げて彼らに別れを告げた。
「そのひとと仲良くねー!」
背中にかけられたおかみさんの声に、りんは顔を真っ赤にした。そうして少女は里をあとにしたのだった。
大きな荷物を背負ったりんがよたよたと殺生丸のもとに戻ったのは、それから半時ばかりあとのことだった。
「ふわ〜、重かった!」
もうだめとばかりに座り込むと、邪見がいそいで荷物をほどいてくれた。
「見て見て、殺生丸さま。こんなにたくさんの食べ物と換えてもらえたの」
りんがへたりこんだまま無邪気な笑みを見せると、殺生丸は「そうか」とだけ言って頷いた。包みを開いた邪見は「おお!」などと間の抜けた声を出している。貴重な干し飯はもとより、煮て食べられる芋がら縄、梅干まで詰め込まれている。
りんは立ちあがると、阿吽の鞍に食糧の包みを結わえつけた。
「すごいね、阿吽。ほとんどが阿吽の見つけた吉祥茸のぶんなんだって」
そう声をかけると、りんの言う意味が分かっているとでもいうように、阿吽はたてがみを振って見せた。
「薬草というのも、なかなか値打ちのあるもんじゃのう」
邪見は驚きを隠せぬ様子だ。
「これでしばらくは安心だよ」
りんは快闊に笑ったかと思うと、すばらしい思いつきでもあったというように邪見を振り返った。
「ね、ね、邪見さま。妖怪でもあたしの薬草買ってくれるひといるかな」
「さあなぁ。……って、今度は妖怪相手に交換に行くつもりか?!」
邪見はひっくり返りそうになった。人間相手でも危険を伴うことがあるというのに、今度は妖怪相手ということになるのだろうか。邪見は眩暈する思いで「先が思いやられるわい」、と溜息をついたのだった。
一行は再び旅路へと戻った。山路を行く阿吽の背で包みがゆさゆさと揺れている。
「阿吽、大丈夫? 歩きにくくない?」
りんは阿吽を振り返った。荷の結び目がほどけているのかもしれない。「もう一度結びなおさないと……」、そう思って踵を返したとき、りんは草の根株に草鞋を引っ掛けてしまった。
「わっ」
りんは思わず声をあげてしまった。転びそうになったのもあるけれど、殺生丸がふわりと手を伸べてりんを支えたからだった。体勢を崩したりんの体は殺生丸のたくましい腕にしっかりと支えられている。
「あ、ありがとう、殺生丸さま」
見あげると、落ち着いた金色の眼差しがりんをとらえていた。そのときふいに「そのひと、あんたのいいひとだろ」という言葉を思い出して、りんは耳まで真っ赤になった。
(いいひとって、いいひとって、そりゃあたしにとってはいいひとだけど)
りんは慌てふためきながらも、体勢を立て直した。
(だけど殺生丸さまは昔のままなんだもの。あたしのこと、そんなふうに思ってないもの)
手がつけられないほどにどきどきしている胸を、りんはぽんぽんと叩いて落ち着かせた。殺生丸はもう何事もなかったかのように、ふたたび歩き始めている。肩を支えた殺生丸の腕の感触が、熱を発したようにりんの中で火照っていた。
「もうっ、おかみさんったら変なこと言うんだから」
りんは顔を赤くしたままぶつぶつ言っている。邪見は「どうした、秋になったというのに暑そうな顔をして」と怪訝そうだ。殺生丸はなにも言わなかった。
時折小鳥がさえずる森の中を、妖怪と少女は歩き続けた。旅路の空は、どこまでも青く澄んでいる。ふたりの刻はこの山路のように、ゆるやかに進んでいた。
< 終 >
2010年11月5日UP
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