【望月の下で】


 美しい月が出ている。今宵は満月。月光に照らされた殺生丸の秀麗な横顔は、青白く沈んで見えた。
「殺生丸さま、どうかしたの?」
「なぜそう思う」
「だって、元気ないもの」
 殺生丸は苦笑いに近い息をついた。りんにはこの殺生丸という妖怪が、常は「元気」とやらに見えているらしい。


 人間の娘と小さな老妖怪と双頭の妖竜を連れたこの大妖怪が武蔵の国を発ってから幾日がたっただろう。いつしか夏の熱気はなりをひそめ、朝や夕には冴え冴えとした秋の気配が日々濃くなっている。
 りんの足に合わせるかのように、旅はゆっくりと進んだ。野育ちのりんは少々のことでは音を上げたりはしなかったが、それでも殺生丸は無理をさせようとはしなかった。今日も山路をのんびりと進み、陽が落ちる前には野宿の準備を済ませたといった具合だった。

 今宵の宿となる疎林からは、虫たちの奏でる音色が穏やかに響きあっている。
 干飯の食事を終えたりんは、殺生丸の姿がないということに気がついた。見まわすと、焚き火の光が届かぬ数間先の樹の根元に腰を下ろしているのが目に入った。りんが近づくと、殺生丸は月の光を浴びて黙然としている。銀色の睫や髪が清らかな光を宿して、まるで現実のものではないと思えるほど美しい光景だ。
 いつものように神々しいまでの姿だった。しかしこのとき、りんは殺生丸の表情に暈を被った月を思いうかべた。それは冴えわたった月が朧雲に覆われて、力なくかすんで見えるのとよく似ていた。

 それで訊ねたのだ、どうかしたのかと。

 りんの言葉に、殺生丸は静かに答えた。
「……どうもしていない」
「そうかなぁ」
 りんは殺生丸の顔をそっと覗きこんだ。旅を始めてから何日かたったころ、殺生丸が少し変わったように感じていた。どこが、と問われれば困ってしまうけれど、ときおり苦しそうな顔をする。いつものように名を呼べば、じっと見つめたあとその瞳を瞼の下にかくしてしまう。ほんのささいなことだけれど、なにかつらそうに思えるのだ。

 りんという小娘は、あるときには驚くほど鈍感でもあり、あるときには鋭くこちらの気持ちを察してくる。たしかに殺生丸は苦しんでいた。もうりんは昔のままの子供ではない。りんの匂いが、そして彼だけに向けられる特別な親愛のこもったまなざしが、この大妖怪の心を翻弄していた。それは彼にとっては不可解な激情の渦だった。手折ってしまえばいい、そんな囁きが肚のうちから聞こえてくる。しかしその囁きに耳を傾けたが最後、もう昔のようなりんと自分ではいられなくなる。それはりんという最も大切な存在を自らの手で損なうことだ。まして妖である自分がりんを我が物にすれば、りんの身も心も無傷ではいられないに違いなかった。己がもっとも恐れることを己が手で行う……それは耐えがたい苦痛でもあり、狂おしい甘美でもあった。

 殺生丸を覆う戸惑いと苦悩という名の暈は、常と変わらぬ玲瓏なその表情からほんのわずかにしのび出て、りんのまっすぐな眼差しにとらえられてしまったらしい。
 りんはすっと身を乗り出すと、殺生丸の額に手をあてた。まるで自然な行為で、それを拒むいとまもなかった。
「うーん、熱くはないみたい」
 目には見えない熱をさがすように黒い瞳が殺生丸を見上げている。りんは小首をかしげた。そして「殺生丸さまに効くかどうかわからないけど、薬草を煎じてみるよ」と立ち上がった。薬草のことは楓に随分と教わった。持ち歩いている小荷物の中にも幾種類かの薬草を携行している。組み合わせと量を工夫したら、妖怪にも少しは効き目があるかもしれない。

 善は急げ、だ。りんは「待ってて!」、そう言って走りだそうとしたけれど、驚いて殺生丸を振りかえった。手首を殺生丸に掴まれたからだ。
「……いらん」
「でも、大丈夫に見えないよ」
「病ではない」
「じゃあなにか心配ごと? あたしにも手伝えますか」
 りんは向き直って再び殺生丸の前に座りなおした。りんは男女の情といったやりとりに疎いところがある。殺生丸が自分のことで苦悩しているなどとは、知るよしもなかった。

 殺生丸は目を閉じたまま答えた。
「……そばにいればよい」
「それだけ?」
「それだけだ」
 りんをそばに置いておくのも苦しい、手放すのはもっと苦しい。だったら、傍らでこのまっすぐな眼差しと心地よい匂いを近くで感じていたほうがどれだけ幸せだろう。だがおまえは私の身と心に潜む熾火のような想いを知ってはいまい。それはおまえを喰らい尽くすかもしれぬ。
 殺生丸は低く呟いた。
「おまえは私が恐くはないか」
 それはりんにしてみれば、今更な問いだ。
「どうして? 恐くないよ。殺生丸さまは優しいもの」
「私は優しくなどない」
 だがりんはにっこりと笑った。黒い瞳が黒曜石のようにつややかに輝いた。
「もしそうだとしても、あたしが優しいと思ってるから、殺生丸さまは優しいんです」
 それはこの闇に浮かぶ満月のように澄明な答えだった。あたし自身がそう信じているんだからそれでいいんです、そんなふうに言っているのだと殺生丸は思った。りんと一緒にいると、時々不思議な真実に気づかされる。そして雲を払うように、ふわりと心が軽くなる気がするのだった。
 殺生丸はりんの頭に手を置いた。昔のように、童女のりんにするように。
 りんは嬉しそうに目を細めた。大きな手の感触が心地よかった。
 ――もうりん無しにはいられぬようになったか。
 殺生丸は自嘲めいた想いで月を見上げた。だがそれも悪くはない。お前を傷つける恐怖を感じながら、お前を守り続けよう。


 殺生丸はりんの頬に手を添えた。されるがままのりんの瞳が金色を映している。それは夜空に浮かぶ満月ではなく、殺生丸の瞳の色だ。
 りんはまっすぐな金色のまなざしを見て安堵していた。りんはこの揺るぎなく澄んだ気高い瞳が大好きだった。いつまでもこんな眼差しでいてほしいと思う。何十年先も、何百年先も。
 ――殺生丸さまはあたしが殺生丸さまのこと大好きだって知らないだろうけど、それでもかまわない。だって、あたしは殺生丸さまが大好きだから、それだけでいいんだ。そう、それだけで。
 そう思ったときに、りんの胸が締めつけられるように痛んだ。りんにとって殺生丸は、どんなに慕わしくとも触れることのできない月に似ていた。

「どうかしたのか」
 今度は殺生丸が訊ねる番だった。りんはかぶりをふって、「なんでもないよ」と言ってえへへと笑って見せた。
 殺生丸はりんの睫をかするようにして頬に顔を近づけた。心地よいりんの匂いはいつしか甘く、陶酔さえもたらすようになった。なぜこうまでも惹かれてやまないのだろう。
 そのまま唇をよせて殺生丸はりんの頬に口づけた。驚くだろうかと思ったが、りんは寄り添うようにもたれかかると、殺生丸の髪を遠慮がちに撫でた。おしゃべりなりんが、なにも喋らなかった。ただ伏せられた睫の下で、黒い瞳が優しく潤んでいた。


 月は音もなく夜空を西へと滑ってゆく。ゆっくりと空を渡る丸い月を、ふたりは寄り添ったままずっと眺めていた。満月の夜は、そうして静かに更けて行ったのだった。


< 終 >












2010年10月5日UP
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