【手にとらば】


 遠い山の向こうに、峰のように盛りあがった雲が見える。それは夏のさなかほどで雄大ではないが、まだ秋と呼べるほど冷涼にはなっていないことを示していた。
 行く手には穂を出しはじめた芒が風に揺れている。あまり人の通らぬ道とみえて、まさしく野の只中といった風情だ。その間道を行くのは殺生丸と邪見、そして人間の娘りんである。先ごろ、りんは人里を離れた。いまは殺生丸というこの大妖怪と生きることを選び、ともに旅をしている。
 りんの暮らした老巫女の村は武蔵の国にあった。あと幾日か歩けば国ざかいも近い。かの国は数年前に比べれば妖怪たちの動向もずいぶんと落ち着いてきた。奈落のいたあの頃とは大違いだ。ただ、周辺の国々には化け犬の根城でもある西国の妖怪に遺恨を持つ者もある。殺生丸だけであればどうとでも出来るが、彼の連れであるりんが危険な目に遭わないともかぎらなかった。さして急いでいるようにも見えない旅だが、邪見が言うには、より安全な土地にりんを連れて行くのだろうとのことだった。

「見て見て、邪見さま。あの雲って山盛りのごはんみたいだね」
「はー、おまえは食うことしか考えとらんのか」
「あれは稗じゃなくてきっとお米のごはんだよ」
「だったらなんなんじゃ」
 今日ものんきな会話をしながら、りんは歩いた。村に預けられたその日から、こうなることをずっと願っていた。そばには邪見と、殺生丸がいる。そこはりんの信じる「居場所」だった。
「だって、おいしそうでしょ」
 りんは笑った。こんな他愛もないおしゃべりが楽しくてならない。邪見は溜息をついた。
「殺生丸さま、こやつもう腹を空かせておりますぞ」
 そういって邪見は殺生丸を見あげた。まるでいたずらを告げ口するような口調だった。じつを言えば、こうやってりんと自分とで殺生丸のまわりをうろちょろするのが、邪見も楽しいのだ。殺生丸と二人だけでさすらっていた頃からは想像もつかない変化だった。
 殺生丸は空を見あげた。日は中天に近い。
「先で少し休む」
 そう短く答えた。

* * * * * * * * * * * *

 涼しげな音を立てて、清らかな流れが谷間を走っている。りんは「わあっ」と声をあげて川岸に近づいた。覗きこむと、川底が透けて見えるほど澄んでいるのがわかった。
「殺生丸さまってすごいね、こんなきれいな川があるの知ってたの?」
 そう訊ねると、邪見はあるじになりかわって答えた。
「ふん、人間とは感覚の鋭さが違っていらっしゃるのだ。おまえらと一緒にするでない」
 りんは「そうだね!」と目を輝かせた。殺生丸さまってほんとうにすごい、と心から思う。
「ね、邪見さまにもわかってた?」
 痛いところを突かれて邪見は「あ、あたりまえじゃ」としどろもどろに答えた。
「そ、それよりさっさと飯を食え」
「はぁい!」
 りんは元気よく返事をした。りんは村にいた頃よりも、もっと自分をさらけ出しているように見える。心の底からくつろいでいるらしかった。

 りんは旅装を解くと、川の水で手を洗い水を飲んだ。歩き疲れた身体にしみとおるようだ。りんは手ぬぐいを水にひたして汗をぬぐっていたが、そうっと殺生丸と邪見を振りかえった。
「あの……」
「なんじゃ、こんどはなんじゃ」
「水浴びしてもいいかな」
 このところ歩き詰めで、ずいぶん汗をかいてしまった。こんなきれいな川のそばで休むのだったら、水浴びしない手はなかった。邪見は「面倒くさいやつじゃなぁ」とぶつくさ言ったが、殺生丸の「好きにしろ」という一言に口を閉じた。
「ありがとう、殺生丸さま!」
 りんはついでに着物も洗っておこうと、替えの小袖をかかえて上流へと向かった。
「おっ、どこへ行くんじゃ」
 邪見が見とがめた。
「……見えないところ」
 りんがもじもじしながら答えた。邪見は「そういえばりんのやつも年頃じゃったな。忘れておったわい」と心の中でつぶやいた。つい以前旅した頃のつもりでいてしまう。人間の成長とは早いものだ。
「あまり遠くへ行くんじゃないぞ〜」
 邪見は声をかけた。

* * * * * * * * * * * *

 りんは川の湾曲部に来ると、後ろを振りかえった。ちょうど良い具合に、向こうからは見えないような形で木の枝がせり出している。りんはそっと帯を解いた。肩から小袖をすべり落とすと、若い雌鹿のような裸体があらわになる。
 りんは澄んだ流れにゆっくりと入っていった。予想以上の冷たさに思わず身震いしたが、すぐにそれは心地よさへと変わった。
 (髪も洗っちゃおうかな。このお天気なら大丈夫だよね)
 木々の間から見える太陽をりんは見あげた。まだ陽は高い。
(食べてる間には乾いちゃいそう)
 そう思って水をくぐろうとしたとき、りんは思わず悲鳴をあげてしまった。

「なにごとでしょう、殺生丸さま!」
 邪見と殺生丸は思わず顔を見あわせた。ばしゃっ!という水音、そして間髪いれずに発せられたりんの悲鳴。邪見はりんの行った川の湾曲部へと走った。殺生丸もゆっくりとそちらへ向かう。ここには妖怪の気配も、さらには人の気配すらなかった。さしあたり危険な目には遭っていないはずだが、油断はできない。以前にも増して、殺生丸はりんの身の安全が気にかかる。失われればもう二度と取り戻せない命だ。

「りん、大丈夫か! 返事をせい!」
 邪見が川の中のりんに声をかけた。りんは水の中にうずくまっていたが「だ、大丈夫だよ」と返事をした。
「どうしたんじゃ、いきなり大きな声を出して」
「蛇が落ちてきたの、ここから」
 りんは頭上に張り出した木の枝を指さした。水にもぐろうとしたりんの目の前に、ここにいた蛇が突然落下したのである。下流を見ると一匹の蛇が、そちらも驚いたような態で川岸へとうねうね泳いでいるのだった。
「はぁー、びっくりした!」
「びっくりしたのはこっちじゃい!」
 邪見は「あほらしいわい。さっさとあがれ」と溜息混じりに戻って行ってしまった。

「邪見さま、待ってよ。もう蛇いなくなっちゃった?」
 どうも蛇は好きではないらしいりんが狼狽して立ちあがると、そこには邪見ではなく殺生丸が立っていた。
「うわっ!」
 りんは慌ててまた水の中にうずくまった。
「せせせせ、殺生丸さま……」
 いつもは大らかなりんが慌てている。殺生丸は「蛇は嫌いか」と独りごとでも言うように呟いた。
「ちょっと驚いただけ。でも……あんまり好きじゃないかな」
 以前蛇の妖怪に襲われたこともあったし、少し驚きすぎてしまった。それに目の前に落ちてくるなんて、反則ではないだろうか。
「もう大丈夫だよ。すぐあがります」
 りんは水中にしゃがんだままそろそろと川岸に向かうと、手だけを伸ばして着替えをとった。蛇のせいなのか殺生丸がいるせいなのか、音が聞こえそうなくらい胸がどきどきしている。後ろを向いて小袖を身につけると、すすす、と帯を巻いた。邪見がここに居合わせたらなら、殺生丸さまは野暮でいらっしゃるわいと溜息をついたかもしれない。
 すっかり着終わると、りんは殺生丸のほうに向き直った。恥ずかしそうにうつむいている。
「蛇は向こうへ行った」
「え?」
「こちらには来ない」
 見張りをしてくれていたのだろうか。りんは「ありがとうございます」と言うと、ぺこりと頭をさげた。殺生丸は黙って見ていたが、りんの頬にかかる黒髪のひとすじをそっと濡れた髪になでつけた。
「早く乾かせ」
 そう言って踵を返した。りんは頷いてから「あっ、着物も洗って干します!」と、河原に脱いでいた小袖を拾いあげて大急ぎで洗濯したのだった。

* * * * * * * * * * * *

 悠然と見える足取りで引き返しながら、殺生丸はりんの髪に触れたその手を握りしめていた。
(……私はなにを考えている)
 きりりと音がしそうなくらい犬歯を噛みしめた。だが、はた目には玲瓏そのものの表情に見えただろう。殺生丸の鋭い爪は掌に食い込んで血をにじませた。
 りんの濡れた髪に触れたとき、もっとりんに触れたいと思った。りんの躰も心も全て自分のものにしたい、そんな想いが胸にほとばしった。それは一瞬のことであったけれど、激流に呑まれた舟のように殺生丸の心を動揺させた。
 殺生丸の掌から糸のように血が滴り落ちた。欲しいならば奪えばいい、野の花を手折るように。りんに出会う前の殺生丸ならばそうしただろう。まして殺生丸の求めならば、拒む者さえあるまい。

 殺生丸が戻ってくると、ちょうど邪見が火をおこしているところだった。
「殺生丸さま、りんのやつめは?」
「すぐに戻る」
 殺生丸は河原の岩に腰をおろした。手を開くと、生乾きの血が掌一面を朱色に染めていた。
(…………ならぬ)
 殺生丸は掌を握りしめた。りんを己のものにすれば、この手を染めるのは己が血潮ではなく、りんの血かもしれない。その想いのままりんに触れれば身体も、……いや心までも傷つけてしまうかもしれない。殺生丸にとってりんを傷つけることは、己が身を切られるよりも耐えがたい苦痛だった。そのようなことができようはずがない。りんには、……りんにだけは。


 はたはたと濡れた布の音がする。洗った小袖に風を当てながらりんが戻ってきたのだ。着物を洗うついでに、ちゃっかりと髪も洗ってきたようだ。
「ごめんなさい、遅くなっちゃった」
 りんは小袖を手近な梢に引っ掛けると、ちょこんと殺生丸のそばに座った。そして「とてもさっぱりしました」と言って屈託なく笑った。
 殺生丸は普段と変わりない様子で、「そうか」とだけ答えると、木々のその向こう、遥かな山並みを眺めていた。りんは握り締められた殺生丸の掌には気付かずに、「なんだか空まで涼しく見えちゃうなぁ」と同じ方角を眺めてほほえんだ。
 こうやって二人できれいな景色を眺められるって、なんてうれしいことなんだろう、そうりんは思った。村にいた頃はどんなに一緒にいたいと思っていても、殺生丸は村にとどまってはくれなかった。けれどいまは違う。ずっと一緒だ。
「殺生丸さま、あの山を越えていくの?」
「さあな」
「ふうん。途中で道が崩れてるかもしれないもんね。でもあたし、どんなけわしい道だってへっちゃらだよ」
 ……けわしくても、危険でも、あたしには関係ない。どんなすごい山道だって、殺生丸さまと一緒ならばどこまででも行ってみせる。そんなことにはならないと思うけど、殺生丸さまが「おまえはもういらない」と言うその時まで。

 殺生丸とりんは遥かに横たわる山並みを時を忘れたように眺めていた。しかし、隣り合う二人は同じ場所を見ているようでいて別の想いを抱いている。動揺と、満ち足りた気持ちと。その手に迷いなくりんの手をとることが出来たなら、殺生丸の胸中もりんと等しいものになるだろうか。そしてこの山並みを、りんと同じように穏やかに眺めることができただろうか。
 木々の葉が風にそよいで、ざわざわと騒いだ。日盛りの川面は白い陽光をちらちらと反射させている。殺生丸は瞑目した。掌からしのび出るかすかな血の香と、りんの心地よい匂いとが殺生丸の嗅覚をも翻弄していた。


< 終 >












2010年9月3日UP
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