【ほたる火】


 足元の草叢から、星屑がささやくような調べが聞こえている。りんと殺生丸が歩むそこかしこで、夏の虫達が美しい音を競わせていた。数日間降り続いた雨は止み、夜の森は涼やかな闇に覆われている。森全体が夜空のようだ。
 屋敷からそう遠くないこの森は、そぞろ歩きをするにはちょうど良い場所である。夏のはじめになると森の中の小さな渓流には蛍が見られるそうで、りんはそこで涼むのを楽しみにしていたのだ。

 邪見と阿吽を森の外で待たせ、りんと殺生丸は蛍のいる渓流へと進んだ。彼らが祝言を挙げたあと邪見は少々蚊帳の外で、今日も今日とて「わしも蛍を見たいのう」と人頭杖で地面に渦巻き模様を描いているという具合だった。
「邪見さま、大丈夫かな」
 りんは老妖怪のいる森の外を振り返った。殺生丸は「気にするな」と言い捨てて先を歩いた。だいたい邪見なる下僕は、時にりんよりも大騒ぎをして喧しいことこの上ない。こんな静かな夕べには少々「邪険」にされても仕方がなかろうというのが殺生丸の気持ちでもある。
 りんは駆け寄って「でも邪見さまってけっこう寂しがり屋だよ?」と殺生丸を見上げた。殺生丸はふん、と鼻を鳴らして振り返ったが、りんに目を留めたまま立ち止まった。

 りんは「わっ」と小さく声をあげると、目を閉じて身をすくめた。殺生丸がりんの髪へ手を伸ばしたからである。まだ夏になる前、りんはこの森でこんなふうにして殺生丸に手繰り寄せられたあと、草の褥へ組み敷かれたのだった。りんはそれを思い出して体中が熱くなる思いがした。しかし、今夜はそうはされなかった。
 おずおずと目を開けると、殺生丸が伸ばした手の中には、仄青い小さな光の塊があった。
「それ、なぁに?」
 見たこともない不思議な光の塊に、りんは身を乗り出した。
「妖の蛍だ。おまえの髪にとまっていた」
「蛍? 妖の?」
 覗き込むりんと殺生丸の視線が合った。鼻先が当たりそうな距離だ。殺生丸は珍しく目を細めた。
「さっきはなにをそんなに固くなっていた」
 揶揄するような口調だ。
「いじわる」
 りんは赤く染まった顔で頬を膨らませた。妻となり幾度臥所をともにしようとも、こんなところは昔と全く変わらない。そのりんらしさが愛おしく、また興をそそられもするのだった。

 殺生丸は漆黒の夜空に向けて掌を差し出した。妖の蛍は、頼りなげな光の尾を引いて闇の中へと消えてゆく。
 りんは「邪見さまに見せてあげようと思ったのに」と名残惜しそうに小さな光を見送った。だが、小さいとはいえ、妖は妖だ。害をなさないとも限らない。
「邪見には虫の蛍を持ち帰ればよかろう」
 そう言うと、「そうだね! 殺生丸さま、早く早く!」と、殺生丸の袖を引っ張らんばかりにして急かすのだった。

 しかし、りんは足止めを食らうことになる。
「あれ見て、殺生丸さま!」
 唐突に立ち止まると、夜空の一点を指差している。見上げると、潤んだような闇夜に仄青い光が明滅していた。先ほどの妖蛍だろう、星のように見えた光点は息づかいのように光の強弱を繰り返し、またたく間に雲のように膨れ上がった。大きくなっているのではない、数え切れぬほどの小さな光が一点を目指して集まっているのだ。
「やはり来たか」
 眼前の上空に青白く渦巻いて光る不気味な雲が生じた。それを構成するのは、すべて妖の蛍だ。
 殺生丸は小さく溜息をついた。妖の蛍にたいした妖力はない。小さな光球の形をとるしか出来ない、ごくひ弱な妖気の塊だ。おそらくりんの人の「気」か殺生丸の強大な妖気に怯えて攻撃の態勢をとったのだろう。
「妖の蛍!? どうしてこんなにたくさん?」
 りんはあっけにとられて青白い蠢きを見上げた。
「先ほどの一匹が仲間を呼んだようだ」
「じゃあさっきのは物見役の蛍だったのかな。虫の蜂に似てるね」
 こんなときにも感心したような口ぶりのりんである。その間にも、妖の雲は夏の入道雲のように膨れ上がって空を覆いつくす勢いだ。

 殺生丸はりんを自分の背後に庇った。
「じっとしていろ」
 殺生丸は一歩前へ足を踏み出すと、爆砕牙に手をかける「そぶり」をしてみせた。まるで水が流れるような、流麗な動きだった。
 ざあっ!
 驟雨のような音がして青白い雲の形が乱れた。あちらこちらでのたうつように形を変える。そして次の瞬間、波しぶきが砕けるように妖の蛍たちは四散した。そのあとには取り残されたいくつかの光点がおぼかなくさまよっている。一瞬にして森の闇が戻った。
「みんな逃げちゃった!」
 りんが感嘆して声をあげた。昔、りんが狼に噛み殺されたとき、その一睨みで狼たちを威圧した殺生丸の話をりんは幾度となく邪見に聞いたものだった。それを自分の目で見ることは出来なかったけれど、いま目の前で起こったことがそれに近いのだとりんは思った。
(やっぱり殺生丸さまってすごいなぁ)
 りんは胸に手をあてた。まだどきどきしている。殺生丸は表情も変えていない。「あれを全て集めても、邪見一匹分にもならん」と気にも留めていないふうだった。妖の蛍はこの季節の数日のみ現れて、あとは一年後の同じ時期まで眠り続けるという。彼らは本来ごくおとなしい性質ではあるが、夜の森へは一人で行かぬようにと殺生丸はりんに釘をさした。

「行くぞ、くだらん道草をした」
 殺生丸は何事もなかったように足を進めた。その端整な姿が淡く光を発しているだけで、もう森は漆黒の闇の中だ。りんは殺生丸の後ろ姿を頼りに歩を進める。
「でも妖の蛍もちょっときれいだったね」
 のん気にそんなことを言うりんを、殺生丸は興味深げに眺めた。
「ではもう蛍は見に行かなくても良いのか?」
 殺生丸の指がりんのおとがいを捉える。上向きにされたりんの顔が、きょとんと殺生丸を見上げた。
「だめだよ殺生丸さま、邪見さまに蛍を……」
 答えようとする唇を自分の唇でふさいで、殺生丸はりんの帯に手を伸ばした。なめらかな音を残して細帯が草叢へ滑り落ちる。

 夜森の草叢にあえかな光がともった。それは大きな仄白い蛍火のようだった。


< 終 >












2010年7月23日UP
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