【旅立ち】


 「あたし、殺生丸さまのところに行きます」、あの日りんが楓に告げたとき、来たるべき時が来たと思いながらも、老巫女は衝撃を受けずにはいられなかった。
(やはり殺生丸を選んだか……)
 りんの想いは楓にも痛いほど分かっていた。里に暮らしていようとも、りんの心は別のところにある。言葉にはしなくても、りんを見ていれば分かる。
「ここにおらんか、りん。ここで今までのように手助けをしてくれぬか」
 言っても詮無きことだと分かっている。こんな提案はかえってりんを困惑させるだろうということも。それでも楓は言わずにはいられなかった。りんが辿るであろう数奇な運命と困難を思えば、このまま里にいて欲しいと願うのも無理からぬことかもしれなかった。人と妖怪、相容れぬわけではないと楓は思う。だが相容れたとしても、両者の間には動かしがたい隔たりが横たわっているのだ。
 りんは丁寧に床に手をつくと、今まで世話になったこと、それにも関わらずなんの恩返しも出来なくなってしまったことを詫びた。りんにとってはそれが一番の気がかりだった。
「違うのだ、りんよ」
 楓はうろたえた。そうではない、そういうことではないのだ。楓は率直に「妖怪と人とはずいぶん違う。生きざまも、生きる時間もだ」、と言って沈黙した。
 りんは楓の言わんとすることを察した。そして自分のことをこれほど大切に思ってくれる老巫女に、深く頭を下げた。
「楓さま、人はどこにいても生きてさえいれば嬉しいことも幸せなこともあるように思います。おなじように、つらいことも悲しいことも、たくさん。だったらあたしは殺生丸さまのおそばで生きたいんです」
 このとき、楓はりんをもう引き止めまいと思った。
「すまぬ、りん。歳をとると愚痴が多くていかん」
 楓はもう巫女らしく凛として養い児を見つめた。
「とうとう己の行く道を決めたのだな」
 りんは楓の皺だらけの手をとった。
「今までありがとう、楓さま。あたし、楓さまをほんとうのおばばさまのように思っていたんだよ」
 鎮守の巫女の老いた目尻に、ひとすじ涙がこぼれた。


* * * * * * * * * * * *


 それからひと月がたった。
 昼間の茹だるような暑さが波のように退いた日暮れ、楓の小屋はいつもとは違う雰囲気に包まれていた。りんが里を去るこの日、住み慣れた古家にはあの邪見の姿もある。
「おお、りん。その着物は……」
 囲炉裏端で着替えを待っていた老妖怪が感嘆して声をあげた。
「殺生丸さまにいただいた反物で仕立てたんです」
 衝立から出てきたりんは、両の袖へかわるがわる目をやった。きっちりと旅支度をしたその一番上には、ごく淡い色あいの小袖を着ている。それはほとんど白だと言っていいくらいで、花びらのように艶やかな表面には、光の角度によって浮きあがる花模様が織り出されていた。
 邪見はりんの装いに目をしばたたかせた。
「ふむ、良い小袖じゃな。都におるような姫君にも引けをとらんぞ」
「うん、ほんとうにきれいな布だよね」
 りんは襟元の模様をそっと指でなぞった。
「ずいぶん前にいただいたんだけど、これだけはずっと大切にしまっていたの」
 まあ確かに野良仕事には向かん布地じゃのう……、と邪見は溜息をついた。
(きっと美しい布だからと、なーんにも考えずにりんにやったんじゃろうなぁ。殺生丸さまはそういう所が少しぬけてらっしゃるわい)
 邪見がそんなことを考えていると、ふいにぴしりと背中へ殺気を当てられた気がした。
「はわわ! りん、おまえに殺生丸さまからのお届け物があったんじゃ」
 担いできた包みをうやうやしくりんに差し出す。りんが包みを開くと、中には薄絹の被衣が入っていた。被衣は外出用に頭から被る衣である。しばらくは旅になるであろうことを考慮して殺生丸が用意させたのだろう。まるで朝靄の光を折りたたんだような、見たこともない繊細優美な品だった。
「うわぁ、きれい!」
 楓も「ほう」と声をあげた。まるでりんの装いとそろえたような被衣だった。
「その小袖といい被衣といい、まるで花嫁御寮のようだ」
 楓が冗談めかして言う。そんなつもりじゃなかったのに、とりんは恥ずかしくてたまらない。殺生丸とりんの間には確固とした男女としての自覚がまだない。ただ一途に、お互いをかけがえのない唯一の存在だと思っている。嫁入り衣裳だなんてとんでもない話だが、たくさん届けられた着物や反物の中で今日という日にのためにこれをとっておいたのは、りんなりの理由があった。殺生丸から貰った品の中で最も白く清らかなこの布地は、人の世界からのお別れと、殺生丸の元に行く新たな誓いを込めるのに最もふさわしい気がした。あの日あの約束をしてから、少しづつこの布を小袖に仕立てた。考えてみればこの小袖は嫁入り衣裳に近い意味があるようにも思われた。
「そろそろだな」
 小屋の入り口に目をやった楓はりんを促した。陽が沈むまでにりんを連れて行くことになっている。りんは頷いて立ち上がった。持って行くのは身の回りのわずかな品だけだった。


 三人が村はずれまで行くと、親しくしていた者達が見送りに来ていた。かごめや犬夜叉、珊瑚や弥勒の姿も見える。りんの姿が目に入った途端、巫女装束をひるがえしてかごめが駆け寄ってきた。「りんちゃん」、そう言って抱きしめてくれた。あたたかいかごめの体温は、もし自分に姉がいたらこんなふうだったかなと思わせずにはいなかった。
 かごめはりんを離すと、まっすぐにりんの目を見て言った。
「りんちゃん、本当にいいのね?」
 りんは頷いた。
「かごめさまはわかっていらっしゃるのでしょう?」
 見つめる瞳が深く澄んでいる。それだけで二人には全てが伝わった。
 かごめは、「元気でね、りんちゃん」と言うと、むん!と自分の腰に両手をあてた。
「でもね、殺生丸のところが嫌になったらいつでも帰っていらっしゃい。あたし、殺生丸にお説教してあげるわ」
 そう胸を張って片目をつぶって見せた。二人のやり取りを聞いていた者達に和やかな笑いの輪が広がる。

 皆に一人づつ挨拶をして、りんはもう一度視界に入る限りの村を見渡した。ここでたくさんのことを学んだ。たくさんの人に出会った。たくさんの幸せをもらった。そしてそれを与えてくれたのは、殺生丸だった。
 りんは村と人々へ向けて、深く頭を下げた。
 (ありがとう、……さよなら)
 りんが頭を上げたとき、背後でふわりと草を踏む音が聞こえた。殺生丸だった。
 日没前の茜空の中で、その髪が白金色に照り映えている。夕日を背にして、金色の目が光った。やはり人間とは違うその気配と姿に、見送りに来た村人の幾人かは我知らず後ずさりしていた。

「殺生丸さま!」
 慕わしい名を呼んでりんが駆け寄ったとき、予想外のその姿に殺生丸は目をみはっていた。薄紅の雲が綾をなすその下で、白い小袖がかすかに夕空の色を映している。頭からふんわりと被った薄絹はまるで光をまとっているようだ。それは晩夏の夕暮れにふさわしい楚々とした装いだった。殺生丸はある思いにとらわれて少々驚いていた。手甲や脛巾で旅支度をしていても、りんの姿が嫁入りを連想させたのだ。
 被衣は先ほど邪見に届けさせた物なのは言うまでもないが、身にまとう小袖の様子にも殺生丸は見覚えがあった。以前りんに与えた反物の中に、この布地があった。あれこれと織らせた物の一つで、「こちらは花嫁に着せるような格式の高い品でございますが……」と妖怪の職人は遠慮がちに言ったものだが、その穢れない美しさに驚き喜ぶりんの顔が眼に浮かび、かまわず村へと持って行ったのだった。着た姿を目にすることが一度もなかったので、気に入らなかったのだろうと思っていた。
「あの、やっぱりおかしいですか?」
 殺生丸がじっと自分を見つめたきり黙っているのが不安になったのだろう、りんがためらいがちに尋ねた。
「いや」
 殺生丸は瞳にりんの姿を映したまま答えた。
「似合っている」
 殺生丸は静かに頷いた。
(これがおまえの覚悟のしるし……か)
 のん気なようでいて潔いりんの決意がこの衣裳だった。殺生丸にはそれがわかった。似合っていないはずがない。人間としての暮らしを捨て、妖怪とともに生きることを選んだ、その健気さを改めて思う。
 殺生丸はすぐに踵を返した。陽が暮れてしまう前にりんを連れて行きたいらしい。りんは被衣の端をそっと押さえて皆に一礼をした。

 村の者達から少し離れて見守っていた犬夜叉は、りんに懐かしい面影を重ねていた。面差しが似ているわけではない。あのひとは強くとも、もっと儚げだった。だが犬夜叉は思い出さずにはいられない。
(おふくろ…………)
 りんは母と同じ道を歩むだろうか。優しい笑顔の奥に夕暮れの花のような悲しげな色をにじませるようになるのだろうか。
「りん!」
 (行ってしまう……!)、去ってゆく後ろ姿に犬夜叉は思わず声をかけた。だが何か言葉を用意していたわけではない。立ちすくんで絶句した。
 りんは振り返るとやさしい眼差しで犬夜叉を見返した。
「犬夜叉さま、これからもお元気で」
「……りん、達者でな」
(おふくろ……)
 犬夜叉は懐かしいひとの呼び名を反芻した。
(りん、頑張れよ。殺生丸は強い、もしかしたら親父よりも。あの野郎とならきっとおまえは大丈夫だよな、そうだろう?)
犬夜叉は胸にあふれる思いを、ただ一言に託した。
「殺生丸を頼む」
 りんはその言葉に瞳を輝かせた。
「はい!」

 りんはとん、と地を蹴って殺生丸を追った。薄絹の被衣が天女の衣のようにふわりと風をはらんで揺れた。まもなく日が落ちる。夏の終わりの野に涼やかな風が吹き始めた。
 殺生丸はふと足を止めて振り返った。楓ら村の者達を一瞥するとかすかに目を伏せた。彼なりの礼をしたらしい。そうしてすぐにりんの腰に手を回すと、軽々と抱き上げて瞬く間に空を翔けた。そのあとを危なかっしく阿吽を操る邪見が続く。茜色の空には白い流星のような軌跡が走った。そのあとには、ただ宵の明星がひとつ輝くだけだった。


「行ってしまったね」
「ああ」
 晩夏の野には、いつしか澄んだ虫の音が聞こえ始めた。皆、日が落ちてしまったのに気付かなかったらしい。里を染める夕空の色は、残された人々の姿を影絵のように映し出していた。


< 終 >












2010年7月9日UP
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