【道行き】


 そこぬけに晴れやかな空のむこうから、のんびりとした鳶の声が聞こえる。りんの歩く両脇には、青空をうつしこむ水田が広がっている。植えつけられたまだ若い稲の苗を、初夏の風が撫でてゆく。
 りんは軽やかな風のように、晴ればれとした足取りで楓の村へと向かっていた。二つ隣の村へ薬草を届けた、その帰りだ。楓と一緒のはずだったが、里で急なお産があったため、今日はりんが頼みこんで一人で届けに行くことになったのである。
(ひとりでできたよ、楓さま!)
 りんは嬉しくてしかたなかった。薬草を届けると、楓の古い知りあいだというその老女はとても喜んでくれて、りんに精一杯の白湯を出してくれた。「もうすぐ煎じ薬を切らしそうだったから、どうしようかと思っていたんだよ」と曲がった腰をさすりながら何度も礼を言ってくれた。
 うれしい。あたしが人の役にたっている。
 きれいな青い空、気持ちのいい風、老女の笑顔。しかもこの村は数日後に祭があるそうで、どこかでお囃子の練習をしているらしい楽しげな笛や太鼓の音が聞こえてくる。いかにも心浮き立つ感じだ。なにもかもが嬉しくて幸せで、おもわず笑みがこぼれてしまう。

 りんがにこにこと歩いていると、とつぜん背後から声をかけられた。あんまり楽しくて嬉しかったから、人がいるのに気がつかなかったらしい。
「あんた、見かけねぇ顔だな」
 声をかけたのはこの村の者だろう、鉦や笛などを帯に挿した若者たちだ。
「薬草を届けに来たの」
 りんはそう答えながら、ちょっと呆れつつ、ちょっと可笑しくなった。
(みんな、お昼からお酒飲んじゃってるんだ。お祭りだなぁ)
 いかにものどかな光景だったが、りんは少々困ったことになってしまった。その中の一人が「俺の嫁に来たらいい」と迫ってきたのである。
 「あたし、まだお嫁になんて行くつもりないの。じゃあね」
 そう言ってすたすたと行こうとしても、まったく退こうとしない。少しばかり酔っているとはいえ、その目は真剣そのものだ。若者たちは「一目惚れじゃ!」とか「奴がこんなに気にいるなんて珍しいぞ」とか騒々しく言いあっているが、この青年を止めることはすっかり忘れているらしい。青年はりんの腕をつかんだ。
 「悪いようにはしねぇ。話を……」

 そのときだ、若者たちは風が吼えるような音を聞いた。つづいて、聞きまちがいようのない何者かの咆哮。それは雷鳴のようにはじめは遠く、またたく間に近づいて恐ろしい音で空気をふるわせている。次の瞬間あらわれた姿に、若者たちは腰を抜かした。
「白い大きな犬が……!」
「物の怪じゃ!」
 まるで凶暴な雲のように、四足の妖怪が空から迫ってくる。りんが振り向いたときには、目の前に鮮血のごとく赤い口腔がかっと開かれていた。誰もが本能的に目を閉じた。

 ……それからどれくらい時間が経ったか、わからない。ずいぶん長い時間だったようにも思われる。おそるおそる目を開けたとき、若者たちはりんの腕をつかんだままの格好で固まっている青年の姿を見た。
「あの娘っこは?」
「喰われちまったのか!?」
「もうあんな所に!」
 若者たちは呆然と山のむこうを指差した。空のかなたに、白い後姿が小さく見えている。まるで一瞬の、夢のような出来事だった。


* * * * * * * * * * * *


「ああ、びっくりしちゃった! りん、とても困っていたの」
 牙に引っ掛けられて緩んだ着物をととのえると、りんは大きく息をついて、そばにいる人影を屈託ない笑顔で見上げた。
「ありがとう。あたしがここにいること、どうして知ってたの?」
 傍らにいるのは殺生丸である。りんを降ろしてすぐに、いつもの姿に戻っていた。しばらく不機嫌そうに口を噤んでいたが、「用心せよ」とだけ仏頂面で返した。
 今日はりんに届ける物などなかったが、気づくと楓の村のちかくを飛んでいた。殺生丸はまるで引きよせられるように、りんの村へ近づいていることがある。そのたびに己の不可解さに舌打ちするものだった。そしてこの日、村にりんがいないことはすぐに分かった。匂いをたどってみればこのありさまである。

 用心せよと言われて、りんは小首をかしげた。
「大丈夫だよ。それにお嫁だって。おかしな冗談だよね」
 りんはくすくす笑った。まったくありえない。お嫁というのはもっと大きいあねさまがたが行くものだとりんは思っている。
 殺生丸は胸にちりりとした感覚を覚えていた。りんを女人として気に入った男が現れ、本気でりんを連れて行こうとした。殺生丸にとっては許しがたい行為だ。りんは浅はかな娘ではないが、自分の生き方を決めるにはまだ早い。第一、そのような者がりんの手をとっているのがどうにも我慢ならなかった。大切なものを無遠慮に触られている、そんな苛立たしい感情に襲われた。だから殺生丸は化け犬に化して空を駆けた。そのほうが早いからだ。

 りんは先ほどの村のほうを仰ぎ見た。
「だけどさっきの人たち、きっとびっくりしちゃってるね。それともお酒のせいで夢でも見たって思うかな」
「知るか」
 殺生丸はそっぽを向いた。彼らがどう受けとろうと、知ったことではない。
「楓とやらはどうしたのだ」
「今朝、村でお産があったから休んでもらってるの。明け方まえから楓さま大変だったから」
 難産だったけどとっても元気な赤ちゃんだったよ、そう言って笑うりんに見とれつつ、殺生丸は「りんを一人で使いに出すなどと……」と腹立たしく思った。道中、何かあったらどうするつもりなのか。
 りんは自分の価値を分かっていない。あの老巫女もうかつすぎる。
 しかし殺生丸自身、虚を衝かれたことは否定できなかった。妻にと請われるような年頃になっているとは……。いつまでも自分の知っている幼いりんのままでいると思っていたが、それは大きな間違いらしい。まったく、人の成長というものは油断も隙もあったものではない。

 考えこむ殺生丸を、りんは見上げた。
「怒ってるの、殺生丸さま?」
 迷惑をかけてしまったからだろうか。それとも、楓さまやさっきの人たちに腹を立てているんだろうか。りんは慌てて言いついだ。
「おつかいのことはあたしがお願いしたの。さっきのみんなだって、お祭りで浮かれてただけだよ」
 ああ、りんは昔からそうだった。非力なくせに、他人を気づかう。たとえ自分が危険にさらされていても、だ。
「分かっている」
 りんは、りんだ。里で暮らしていても、昔のままの、好ましい匂いの。

 胸にくすぶる焦燥感は、りんの言葉を聞いているうちに、ほどけるように薄らいでいた。
「ゆくぞ」
「え?」
「村に帰るのだろう?」
 殺生丸は先にたって歩きはじめた。りんはしばらく突っ立っていたが、子犬が駆けるようにその後を追った。昔よりも、すぐに追いつけたのが嬉しかった。
「今日は、ほんとうにいいことばっかり」
「そうか」
「うん!」
 今日はすてきなお天気でうれしい。人の役に立ててうれしい。殺生丸さまが助けに来てくれて、うれしい。殺生丸さまと昔みたいに歩けて、とても、うれしい。
 りんは殺生丸の横顔をそっと仰ぎ見た。昔より高い位置で見えるのが、なんだか不思議に感じられた。さっきはなぜ化け犬の姿だったのかとか、どうして村までついて来てくれるのとか、訊ねたいことはたくさんあったけれど、そんな疑問はいま一緒に歩いている嬉しさに比べたらささいなことのように思えた。ただ、いつか、いつか殺生丸さまのお役に立てるようになりたい、もしお役に立てることが出来たらどんなに嬉しいだろう、そんなことを思った。


 昼下がりの間道は、人っ子一人いなくなったように静まりかえっている。聞こえるのは木々を渡る風の音と、のんきな鳶の声。それから、大好きな妖怪のあとを慕う小さな足音だけだ。
 殺生丸は澄みわたった青空を眺めながら、とてつもなく長い間こんなふうに歩いていなかったという気がしていた。振り返ると、りんと目が合った。何がうれしいのか、目をきらきらとさせて笑っていた。

  二人は滴るような青若葉の間を縫うように進んだ。殺生丸とりんの姿は、近づいたり離れたり、また近づいたり。村に着くまでの短い旅を、妖怪と少女はこんなふうにして歩き続けたのだった。


< 終 >












2010年5月28日UP
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