【後朝の花】


 りんはゆっくりと瞼をあげた。戸を立てた寝所もすでに薄明るくなっている。どうやら夜が明けてずいぶん経つらしい。手をやれば、躰の上には掛け衣が無造作に広げられている。殺生丸は…………いない。
 肘を支えにして、りんはゆるゆると上体を起こした。華奢な裸躰のあちこちに、昨夜の名残があらわにつけられている。かろうじて腕に絡みついているだけの着物に袖を通し、りんは帯を捜した。昨夜、いや今朝と言ったほうがいいだろうか、りんは深い情交のあとふつりと意識を失って、いま目覚めるまで昏々と眠り続けていたのである。
 いつ解かれたものか、帯と花模様の色小袖は部屋の片隅にうち捨てられていた。りんは眠さで崩れそうな五躰を叱咤すると、手早くそれらを身につけ手櫛で髪を整えた。板戸をあけると、思ったとおり夜明けから数刻たっているようだった。


 まだ冷たい晩冬の光が屋敷の回廊に差し込んでいる。その回廊をぐるりと歩くと、泉石のはずれにたたずむ殺生丸の姿があった。
「殺生丸さま!」
 声を掛けると、銀の髪の妖怪は悠然と振りかえり、頷いた。寝坊をしたことを詫びると、「かまわぬ」と短く答えた。もうりんを組敷いたことなど忘れたような、いつもと変わらぬ殺生丸である。りんは縁先に腰掛けて「殺生丸さまは野分の風みたいだね」と笑った。昨夜、攫うように寝所へ抱き入れてりんを翻弄した殺生丸という名の嵐は、いまは過ぎ去った野分のように穏やかに見えた。
 殺生丸はりんの言葉には別段興味をひかれなかったらしく、じっと泉石を眺めている。この時分は少し暖かくなったかと思うと雪が降ったりして、泉石に配された花木の姿も寒々しい。春が深まりゆけば梅、桜、桃と次々に花が楽しめるように工夫されているが、それに比べれば物寂しいのはいたしかたない。けれども冬には冬なりの楽しみがある。この時期になると、餌を求めて翼のある訪問者がたくさんやって来るのだ。
「あたし、ちょっとだけごはんを残しておいて、こっそり小鳥にあげてるの。呼んだらすぐ来るようになったんだよ」
 りんがそう言うと、殺生丸は思い出したように「起きたのなら食事をしろ」と申し渡した。

 邪見に小言を言われながら遅い朝餉をとって、りんは自室に向かった。部屋に近づくと明り障子が開け放してあるのが目に入った。昨夜、殺生丸に抱きかかえられて連れ去られたりんは障子を閉める暇などなかったが、そんなときもかの老妖怪が戸締り万端怠りない。そして近頃は気を利かせているつもりなのか、このような朝は殺生丸やりんの部屋には近づかないのが常となっている。「見ざる言わざる聞かざる」というやつだ。したがって戸はいつものように立てたままにしているはずなのだが、どういうわけか今朝は障子まで開いている。
 りんは足音がしないように部屋へ近づいた。殺生丸の舘は妖力による結界が張り巡らされているが、人間のりんには結界を感じることができない。反射的に、誰かがこの屋敷に忍び込んだのではないかと思ったのだ。
 りんは板戸の端からそっと中を覗き込んでみた。簡素なしつらえの部屋はがらんとして誰の姿もない。だが、部屋の奥の暗がりに仄白い何かが見えた。晩冬の光がちんまりと集まっているような色だった。りんは鼻をひくつかせる。そして「あっ!」と叫ぶと床の間のそれに駆け寄った。

 水仙の花だ。白い水仙の花が一叢、床の間に放ってある。りんはその可憐な花を拾い上げて香りをかいだ。すっと背筋が伸びるような良い香りだった。
「殺生丸さまだ!」
 りんは水仙の一叢を抱くようにして部屋を飛び出した。そういえば以前も花をもらった。凛とした香りの野菊を、情交のあとで寝坊したときに、やっぱり放り出すようにして。


 殺生丸はもう泉石の所にはいなかった。邪見に居場所を聞くと、自室にいるという。
 その足で彼の居室に赴き、廊下で「殺生丸さま、いますか?」と声を掛けた。するとぶっきらぼうな「何だ」という声。そっと戸口まで膝を進めると、何か書状のようなものを読んでいる姿が目に入った。
「これを部屋に持って来てくれたの、殺生丸さまだよね。ありがとう」
 少しはにかみながら礼を述べると「庭には花が少ない」と、そっけなく答えた。りんは「そうだね」と頷きつつ、聞きたいことがたくさんあってつい身を乗り出してしまう。
「水仙、いつ摘んで来てくれたの?」
「おまえが寝ている間だ」
 そう言われてりんは赤面した。殺生丸が衣を掛けてくれたのも寝所を出たのも気付かずに、自分は寝ていたのだ。以前くれたのも清新な香りの野の花だった。閨を共にしてぼんやりしているあたしをしゃんとさせるためなのかな、そんなふうに考えるといっそう恥ずかしい。
 それにしても一体どこで摘んで来てくれたのだろう、庭に水仙はなかったはずだ。
「あの、この花はどこに咲いているの?」
「海に面した丘。……食べるな、少し毒がある」、そう言って念を押すようにりんを見た。言われた当人は、思わずふきだしてしまう。
「やだ、食べたりしないよ。殺生丸さまはりんのこと、ずっと子供だと思ってるんでしょう」
 確かに旅をしていた頃は食べられそうな物を何でも口に入れたものだが、いまのりんは楓の村で学んで薬草や毒草のことだって知っている。りんは袖で口元を押さえて笑った。その袖口から、襟元から、むさぼりたいような艶が零れ落ちてくる。殺生丸はつかの間、それに魅入られた。

 りんはたちまち顔が火照るのを感じた。熱を帯びてからみつく視線を受け止めかねて、もじもじと話をそらした。
「えーっと……殺生丸さまは花の香り、嫌いじゃないの?」
「なぜ嫌いだと思う」
「殺生丸さまって、とてもお鼻が良いでしょう? 水仙は香りが強すぎないかなぁと思って」
 すると、「花は花、人は人、それぞれににおいを持っている。『大抵』は只それ固有のものだとしか思わない。香りのある花でも同じこと。甘ったるくて厚かましいにおいは自分の好みに合わないとかその程度のことだ」、といった意味のことを手短に話して聞かせた。
 りんには、この良い香りを殺生丸も嫌いだというわけではないというのが嬉しかった。ほんの少しでも同じものを見て、感じて、共有できるから。ああ、殺生丸さまはどんな気持ちでこの花を摘んでくれたんだろう、そう思うと胸が熱くなるような、しめつけられるような気持ちがする。りんは目を閉じた。まだ自分が眠りから覚めぬ夜明け、ただひとり暁光の岬で水仙を摘む殺生丸の姿を絵巻物でも見るように陶然と思い浮かべた。

 りんは目を開くと、そっと水仙の白い花びらを指でつついた。ふわりと清々しい香気が立ちのぼる。
「その花、気に入ったか?」
 そう訊ねる殺生丸にりんは頷いた。
「殺生丸さまが摘んで来てくれたんだもん。ほんとうにきれいで良い香り! また来年も咲くといいね」
 たかが一叢の花に目を輝かせる。殺生丸は何の気なしに「花など毎年咲くだろう」、そう言い放とうとして不意に沈黙した。この花を人間は何度見ることができるだろうか。命の短いであろうりんに、何度この花を愛でることが許されるのだろうか。
 この刹那、殺生丸は狂おしいほどの激情に襲われた。それはどうあがいてもどうすることもできぬという、悲壮なもどかしさに似た感情だった。それゆえに昨夜も無体ともいえる激しさでりんと交わった。その爪で触れるのが恐ろしいと思うほど大切にしているのに、なりふり構わずりんの全てをむさぼり、その甘やかな艶に我を忘れた。

 殺生丸は目を閉じる。そして傍目には判らぬ静かさで呼吸を整え、精神を鎮めた。殺生丸の意識の奥に水仙の香気が手に取るように薫っている。
(……庭に数株移植させようと思っていたが、あの花咲く岬をりんに見せるのも悪くない)
 殺生丸は静かに瞼をあげると、書状を文机の端に寄せた。
「見たいか、りん。その花の咲く場所を」
「うん!」
「少し遠いぞ」
 するとりんはいたずらっぽく瞳をきらめかせて微笑んだ。
「この花も今朝殺生丸さまが摘んで来てくれたんでしょう? りんを抱いて飛んでくれたら、夕餉までには戻れそうだよ?」
 阿吽には乗らないのかと訊くと、「殺生丸さまのほうがいいな」と幼い童が肩車でもせがむように答えた。
「ならば来い」
 殺生丸は流れるような動作で立ち上がると、華奢な躰を軽々と両腕に抱き上げた。昨夜の光景を再現するかのように、りんは驚いて声を上げた。「小鳥にまだ餌をあげてないよ」という訴えは聞かなかったことにした。


 昨夜おのが妻を寝所に攫ったその腕は、いまは香り良き花の咲く岬へとりんの躰を運んでゆく。冬の終わりのまだ冷たい風がりんの髪を容赦なく舞い上げた。殺生丸の胸に頬を押し当てると、腕の中で水仙の花がふさりと揺れる。殺生丸は花よりも好ましいりんの匂いを感じながら、己の胸に唱えた。

 いつまでも、どこまでも、私はお前と共に在ろう。


 やがて眼下に宝玉が砕けたようなしぶきを立てて青い海が現れると、岬一面に揺れる水仙の群生が見える。りんが指をさして「ここだね」と小さく叫んでいる。殺生丸はりんが落ちぬようきつく抱いた。いつまでたっても華奢な躰だった。
 群れなす水仙の葉が風になびいて潮騒のような音を立てている。海風が岬をなでると、清い香気が風と共に天色の空へと吹き抜けていった。


< 終 >












2010.02.19 UP
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