【恋初めし】


 おっとう? ううん、そうじゃない。
 にいちゃん? 友達? お社に祀られているような神様?
 そのどれでもない。
 殺生丸さまは、殺生丸さまは……


 質素な住まいの外で、数匹の秋の虫が透明な音を奏でている。昼間はまるで夏とでも言たい様相だが、夜も明け方ともなれば清く冷えた空気が里を満たす。
 掛物の下で寝返りをうったのは、この里に預けられている「りん」。まだ起きるには早い時刻らしく、隣では老巫女の楓が軽い寝息をたててよく眠っている。
 りんは朧な闇の中でそっと目を開いた。屋根や壁に覆われて、初秋の冷気も夜の漆黒もおだやかに矯められている。月や星の光は無いが、やわらかな闇だ。
 りんは小さく息をついた。頭上にひろがる満天の星を眺めながら寝たことも、今では懐かしい。そばには邪見がいて、星月夜のかそけき光を銀の髪に映すあのひとがいた。

 頬にやわらかな掛物が触れて、りんは頬ずりするように顔をうずめた。華美ではないが驚くほど肌触りの良いこの掛物も、殺生丸がりんにと持ってきた衣だった。
(殺生丸さま……)
 今頃どうしているだろう。森の夜はここより寒いに違いない。
 この衣を持ってきてくれたとき、殺生丸に訊ねたことがある。ずいぶん涼しくなったけど殺生丸さまはお変わりありませんか、と。殺生丸はいつもように「変わりない」と一言答えた。
 実際、彼は季節の移り変わりなど気にも留めていなかった。炎のような夏も、骨まで凍るような寒い冬も、かの妖怪にとって何ら脅威を与えうるものではない。春の花が咲こうが金襴のごとく木々が染まろうが、彼には意味がなかった。
 それなのに、殺生丸はこの季節にちょうど良いと思われるこの衣をりんに与えた。かつての彼を知る者ならば、自らの目を疑う椿事に違いなかった。殺生丸は人間のこの小娘を気にかけすぎるほどに気にかけているのだ。

 この里で今、りんはひとりぼっちのあの頃からは考えられないほど幸せに暮らしている。みな打ち解けて接してくれるし、りんにもやるべき仕事がある、必要とされている。読み書きや裁縫を習ったり、この時期であれば人手が足りない田畑を手伝いに行ったりして日々は慌ただしく過ぎる。あたりまえの暮らしの中に、かつてのりんが得られなかったささやかな喜びがたくさんある。それは拝みたいほどに有難いことだった。
 ただ一日が終わり寝に就くとき、りんは心の中で言うのだ。「殺生丸さま、おやすみなさい」と。りんの中に、つねに殺生丸がいる。山の獣が野を恋うるように、りんは共に旅した日々と彼等のことが、どんな幸せな境遇にいても忘れられないのだ。

 りんは掛物の感触を確かめるように目を閉じた。すべらかなその手触りは、かの妖怪の着物を思い出させた。
(あたし、殺生丸さまのそばにいるとき、すごく気持ちが落ちつく。それにとてもうれしくなるんだ。何だろう、これって何かに似てる気がする。おっとう? ううん、そんな気もするけど違う。にいちゃん? 友達? お社に祀られているような神様? どれもちょっと違う。殺生丸さまって、あたしの何なんだろう……)
 そんなことを考えているうちに、とうとう夜が明けてしまった。木壁の隙間から、金色の暁光が差しこんでくる。無性に殺生丸に逢いたくて仕方なかった。


 暁の光が知らせたように、この日も快晴だった。黄金色の海原のごとき田には、重そうに稲穂が実っている。今年はさいわいにも不作ではないようだった。刈り入れを目前にして村人たちにも活気がある。
 りんは朝早くから立ち働く人々を見ながら、今日は殺生丸が来るのではないかという予感めいたものを感じていた。りんには霊力などなかったが、不思議と勘がはたらくことがある。幼いころ森に近い村はずれで一人きりで生活していたせいだろうかとか、殺生丸や邪見といった妖怪たちと旅をしていたせいではないかなどと犬夜叉たちは不思議がったが、りん自身にもよく分からない。ただ、殺生丸の来訪に関しては皆の「お墨付き」を頂戴するという具合だった。この日もいつもの勘に狂いはないように思える。
「楓さま、今日は殺生丸さまが来ると思うんです」
 そうりんが言うと、老巫女は「おや、それで仕事を急いでいたな?」と少しおかしそうに笑った。

 すべきことを見事に片付けてしまったりんは、楓の許しを得て村はずれへと赴いた。季節は日々移り、圧倒的だった濃い緑は優しく秋の色を滲ませ始めている。美しく濃淡を描き出す木立を眺めながら、りんは時折目を空へやってみた。空は天の果てが分からぬほどに蒼いだけで、安寧を謳歌している。殺生丸が来れば、その蒼に銀色の軌跡が翔けるはずだ。澄みきった風が木々の葉を揺らして音を立てている。
(あれっ、そういえば……)
 りんはその木立を見て何か閃いたようだ。いったんそれに思い及ぶと、もう気になって仕方がない。りんは立ったり座ったり、考えこんだり、「とん」と手を打ったりはなはだ落ちつかない。挙句の果てに、舞ともみえぬ不可思議な格好をする。両腕で大きな丸をこさえた姿は、見えない大桶でもかかえているようだ。しきりに「やっぱりそうだよね……でも違うかなぁ」と逡巡の態。その頭上を銀の光が空を裂いて走った。

「ようし、決めた!」
 さんざん思案して張りきった声をあげたとき、りんは自分を見つめる視線に気づいて我にかえった。おそるおそる振りかえると、そばには待ち焦がれていた殺生丸が端正なたたずまいで立っている。
「うわっ、殺生丸さま!」
 りんは慌ててお辞儀をすると、上目遣いで殺生丸を覗き見た。
「あのぅ、いつからそこに?」
「ずっとだ」
 りんとしたことが、殺生丸がそばに来るまで全く気づかなかった。しかもずいぶん間抜けな格好をしていたに違いない。
「ごめんなさい、殺生丸さま。ちょっと考えごとを……」
「何を決めたのだ?」
「え?!」
 りんはどぎまぎと視線をさまよわせた。本当にすっかり見聞されていたらしい。
「あの、えっとね」
 りんは少しのあいだ躊躇したが、すぐに決心した。ずうずうしい申し出かも知れなかったが、いったんこうと思い定めると今度はわくわくしてしまう。

 秋雲が思い思いの形をとって空を流れている。
「殺生丸さま、ちょっとだけ」
 じっとしていて欲しいとりんは言う。真剣な目をして乞うりんに、殺生丸は無言の許しを与えた。りんは頷くと殺生丸の胸にとん……と額をあてた。こうすると気になっていた何かが分かるような気がしたのだ。殺生丸は微動だにしない。その広い胸に額を当てると急に気恥ずかしくなり、りんは戸惑った。そんな自分を叱りつけ、そっと殺生丸の背に両の腕を回す。どうやら先ほどの桶を抱えた姿勢はこれらしい。
 りんは額に触れる感触と、腕を回した感触に全神経を集中させる。すべらかな着物の感触の奥に、鍛えあげられた体があった。寄り添うように頬ずりしても、包むように柔らかくも、けっして熱くもない感覚。けれど心がすとんと落ちついて、何もかも安心できる心持ちがする。

(……思い出した!)
 そのときりんは、天啓でも得たようにひとり納得した。
(やっぱり似ている、殺生丸さまはおおきな樹に!)

 りんがこの世にたった一人残された後、村はずれの巨樹のそばで泣いたことがある。泣いたって何も変わらない、ただ一日一日をなんとか生きぬくしかない。それは分かっているけれど、ときおり悲しくて寂しくてたまらなくなる。わがままを言う子供のように幹にしがみつくと、出ない声で泣いて泣いて、涙がなくなると思うほどに泣いた。そしていつしか泣く気力すら失って、抜け殻のようにその幹にもたれかかったとき、涙で赤くなった頬に触れる木肌がほんのりとあたたかいことにりんは気付いた。木肌からは、かすかにおちついた良いにおいがする。幹に回したりんの両腕を、巨樹は黙って受け止めている。りんは泣くのをやめた。そっと耳を傾けると、幹の奥からは鼓動の如き水音が聞こえるようだった。

 殺生丸を樹のようだと言うならば、それはりんにとって果てもない野に誇り高く立つ一本の巨樹なのかもしれない。この孤独な巨木のそばに、誰からも省みられなかったひとりぼっちの少女は居場所を見出した。何百年という長き命の中で、りんがただその梢の下を通り過ぎただけのことかもしれない。それでもりんはこの場所が好きだ。りんは想像する、自分がいなくなった後もまっすぐに立つおおきな樹を。たとえ幾年もの年月を経てりんがいなくなっても、それは美しい梢を茂らせて天と地の間に在り続けるだろう。
 けれど、この巨樹が己の枝陰にいる小さな人間を守るためによりいっそう強く根を張り枝を広げているのだと、りんのほうでは気付いているだろうか。

 殺生丸の胸に、りんのあたたかい頬の感触がある。こうやってりんが殺生丸を抱くような格好をするのは珍しい。りんは屈託はなくとも決して無遠慮な性質ではなかった。村で何事かあったのだろうかとも思ったが、今のりんからは負の感情を感じない。従って、とりたてて案ずることではないのだろう。
 こうしていると不思議と殺生丸の心は安らいでいた。幼な子のように無邪気に抱きついてきて、いつまでもそうしていたいとでもいうように腕を回している。いつくしむようにその髪を撫でたい衝動に駆られたが、手を伸ばすのは躊躇われた。いつしかりんの髪は長く、艶やかになった。背に回すその腕も、しなやかに甘い匂いさえ放っているように思える。もう連れ歩いていた頃の幼いりんではない。欲しいものは力ずくでも手に入れてきた。だが今の殺生丸は力では動かせないものがあることも、失うのが恐ろしいと思うほどに大切なものがあることも知っている。どうやら、殺生丸の心はやっかいなものに捕らえられようとしているらしかった。

 不思議な胸苦しさから逃れようと、殺生丸はりんを促した。
「どうした」
 自分でも驚いたが、思いのほか穏やかな声音だった。りんははっとしたように顔をあげ、すごいことに気づいたのだという顔をして瞳をきらめかせた。
「あのね、やっぱり思ったとおりなの!」
「何がだ」
 りんは重大な発表でもするように宣言する。
「殺生丸さまは樹みたいなの」
 りんの言い様に、さすがの殺生丸も首をかしげた。他者に非情だとか冷血漢だと言われたことはあるが、「樹」だと言われたのは初めてである。
「……何のことだ」
「えーっとね、どう言えばいいのかなぁ……そうだ、殺生丸さまのそばにいるとほっとするってこと!」
 それを確かめるために妙な仕草をしてみたり、抱擁のようなことをしたのかと少々拍子抜けしたが、りんの嬉しそうな笑顔を見て殺生丸は呆れるのをやめた。沈着な殺生丸を戸惑わせることができるのは、この小娘だけかもしれない。少々間の抜けた見立てだと思わなくもないが、りんが「樹」だと言うのならばそれでいい、そういう気がするのだった。

 りんはすっかり満足していた。「殺生丸はおっとうでも、にいちゃんでも、友達でも神様でもない。あのときの樹みたいに、ううん、それよりももっと特別な存在なんだ」、そう心で頷きながら、りんはおおきな樹のように思う殺生丸の胸の中で無邪気な喜びにひたっている。
 けれど、りんはすっかり忘れていた。殺生丸に逢うときに胸がどきどきと苦しくなること、金色の瞳で見つめられると頬があつくなってしまうこと、殺生丸が帰るときにはその背中にくっついていたくなることを。木を抱くときには感じないはずの気持ちが、そして共に旅をしていたときとは違う想いが胸の奥に育っている。そのおぼろげなものが何なのか、今はただ戸惑いいぶかしむばかりである。


 いつまでも寄り添う二人の姿は、野良仕事を終えた村人たちの目にとまってしまった。
「おい、あの林の端に見えるのは楓さまのとこのりんじゃないか?」
「そうだ、りんじゃ」
「おお、これはあれか、いい仲というやつか」
 りんはもうすっかりこの里に馴染んでいたし、村の者は妖怪という存在に多少なりとも慣れているところがある。二人には気づかれていないだろうという安心感からか、「いい仲じゃ、いい仲じゃ」「うん、よい眺めじゃのう」などと囃したてること遠慮がない。
 いくら距離があろうとも耳の良い殺生丸だ、さすがにこの馬鹿騒ぎは聞こえている。心地良い時間を邪魔されて苦虫を噛み潰したような顔だ。
「……愚か者どもが」
「え?」
 りんが顔をあげる。
「おまえのことではない」

 いつかりんはこの村の誰かに嫁ぐのだろうか。それはりんという一人の人間にとって、もっとも幸せなことなのかもしれない。
 そう思う殺生丸に胸に、鋭い刃物で裂くような痛みが走った。瞬間、眉根を寄せる。傷などないはずの胸に、血の花でも咲いたかのごとく疼痛が消えない。
 殺生丸の変化を敏感に感じ取ったりんが、「どうしたの?」と顔を覗きこんでいる。媚びも邪心もない、真っ直ぐでひたむきな眼差しだ。この瞳がだれか他の男へ微笑みかけるのだろうか。このまま人里に置いていれば、そうなる日も近いのかもしれない。そうすれば自分はりんを忘れるだろうか、それともこの胸の傷から永劫血を流し続けるだろうか。
 殺生丸は瞑目した。
「何でもない」

 村の野次馬たちが無邪気な笑顔で手を振っていたが、りんは全く気づいていないようだ。心配そうに殺生丸の胸に手をあてている。
 ざわざわと木立の梢が音を立てた。「案ずるな」と短く言うと、りんは安堵したのか「どこか痛いのかと思って心配しちゃった」と言って笑った。その心のうちまでは、りんに分かろうはずもない。
 風が野面を吹き渡り、その先にある黄金色の稲田を美しく波立たせている。緑の中にほのかに黄や紅を含ませて、山々は少しづつ、だが確実に色づきつつある。この木立が夕映え色に染まる頃、里も本格的な秋を迎える。四季が彩りを変えるように、殺生丸とりんの上にも萌芽の季節が訪れているらしかった。


<終>












2009.10.23 UP
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