【約束】
里の桜もすっかりほころんで、ときおり花弁が雪片のように舞う春爛漫のころ。
「りんちゃん、おすそわけ!」
戸口からかごめの声が陽光と一緒に飛び込んできた。囲炉裏端で手仕事をしていたりんがどうしたのかと出て行くと、笑って手を挙げるかごめと大きな包みを担いだ犬夜叉が立っている。
「犬夜叉が猪をとったの。食べきれないから、りんちゃんにもと思って」
「ありがとうございます。うわぁ、すごい量!」
「これでもちょっぴりなのよ」
かごめは「お腹いっぱいになっちゃうから覚悟しといてね」と言って笑った。犬夜叉は先日まで村を空けていて、こんなふうにりんと話すのは久しぶりだ。また少し背が伸びたんじゃねえか、と犬夜叉は思う。昔とそう変わらないかごめの身長にりんが追いつきそうになっているのが不思議な感覚だった。
しかしそれだけではない、何か違和感めいたものを感じる。
(なんだこのにおいは?)
献立談義に花を咲かせるかごめをさえぎって、犬夜叉はりんの頭を指差した。
「りん、お前その結い紐……!」
「これのこと?」
りんは嬉しそうに髪へと手をやった。
「元は殺生丸さまの鎧の飾り房だったんです。不思議な術で結い紐に変えてくれたの」
それはまだ山に雪が残っているころだった。ゆえあってりんに預けていた緋房の片方を、殺生丸は「いらん」と受け取らなかった。そして、かわりにそれを結い紐へと変化させ、殺生丸自らりんの髪を結った。この緋色の結い紐は、りんの大切なたからものだ。
「そんなもん外しちまえ、りん」
「えっ、どうして?!」
りんは顔色を変えた。
「それ、妖鎧についてたやつだろ? だったらちっとは妖力を持ってるもんだ。変なモノに目を付けられたらどーすんだ」
「変なモノ?」
りんは首をかしげた。
「妖怪の中にはタチの良くねぇのがいるからな。殺生丸の野郎も無用心だぜ」
「ねぇ、それってりんちゃんは俺のものだぞっていう印なんじゃない?」
かごめが口を挟んだ。まるで約束の品じゃないの、そう言って空をうっとりと見上げた。
「けっ、そんな気の利いたこと考えるような奴かよ」
殺生丸とりんは、いわゆる「いい仲」とは少々違うように思える。だいいち、この里でりんを暮らさせているのだって、りんが己の意思で人生を選択できるようにという配慮だったはずだ。それを殺生丸のほうから破ろうとするのならば……犬夜叉は刀の柄に手をかけた。
(またやりあわねぇといけねえかもな)
眉間に剣呑な空気を漂わせる犬夜叉に、かごめはわざとおどけた表情をして見せた。
「そうかなぁ、ロマンチックでいいと思ったんだけどっ」
「あの……」
二人のやり取りを聞いていたりんは、思いつめた表情で切り出した。
「犬夜叉さま、それって逆もあるの?」
「逆?」
りんは奥から手箱を持って来ると、そっと蓋を開いた。中にはほぐされた緋糸の束が入っている。
「これ、以前あたしがつけてた結い紐なの。いま、ほどいて房に作り直している途中なんです」
「妖鎧の房にか?」
りんはこくりと頷いた。いつもは快活に輝いている瞳が、不安そうに揺れている。
「ねえ、りんちゃん」
緋糸の束とりんの髪を結っている紐を見比べながら、かごめが身を乗り出した。
「それって交換……のようなもの?」
「はい。結い紐に変えてしまった房のかわりに、あたしがつけてた紐で鎧の房を作るように、って殺生丸さまが。でも犬夜叉さまがおっしゃったように、妖怪の持ち物を人が持って危険があるとしたら、人の世の物を身につけて殺生丸さまに禍いが起きたりしないんでしょうか?」
りんは心配そうに犬夜叉の顔を覗き込む。犬夜叉は思わぬ問いをかけられて答えに窮した。自分は半妖だからあまり深く考えてこなかった。
「……まあ殺生丸のことだ、大丈夫なんじゃねえか」
「本当に?」
「たぶんな」
「もう、たぶんって……」
りんはしゅんとして視線を落とした。その様子を見て、かごめは明るく声をかける。
「殺生丸は自分から紐を房にしろって言ったんでしょ? なら大丈夫なんじゃないかな。殺生丸はいい加減なことは言わないんじゃない?」
りんは顔を輝かせる。
「そうだよね、殺生丸さまの言ったことはいつもほんとうだもの」
犬夜叉とかごめは顔を見合わせた。りんの殺生丸を信頼していることといったら、一ごうの揺るぎもない。ほほえましいというか、呆れるほどというべきか……。
「じゃあね、りんちゃん」
「またな」
りんのもとを辞して、かごめと犬夜叉はうららかな春の里を家路へ向かった。
「りんちゃんが妖怪の世界のものを身に付ける、殺生丸が人の世のものを身につける、これって殺生丸の決意のあらわれなんじゃない?」
「やつの思惑なんて知るかよ。だいいち、そこまで考えてるとは思えねぇな」
「そうかしら」
「そーだ」
かごめは思う、殺生丸が何を考えているのかよく分からないのはいつものことだけど、りんちゃんはもう決心してるんじゃないかと。いつかりんはここから旅立つ、かごめにはそんな気がしていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
墨を薄く流したような空から、ばたばたと雨粒が落ちてくる。
あれから数ヶ月、りんの里も雨に覆われる季節を迎えた。心を込めて結い紐からほどいたあの緋糸は、今やりっぱな飾り房に形を変えている。
りんは桐の小箱に緋房を納めると、懐に忍ばせた。やっと殺生丸にこれを渡せるようになったのだ。会うたびに妖鎧の飾り房が片方だけなのが申し訳なく気にもなっていたのだが、人の世の絹糸をあの緋房のように際立った美麗な品に作り変えるには思いのほか手間がかかった。りんは念入りに手をかけ絹糸のうねりを伸ばし、端正に形を整えた。殺生丸を想い、その身のつつがなきを願いながら。このところ長雨に降込められたのも、りんには助けとなった。雨の時期とてやるべき仕事はたくさんあるが、少なくとも落ちついて房を作ることに打ち込めたのだ。
そうして今日、ようやく納得のゆく仕上がりとなった。あとは殺生丸にこれを渡すばかりである。
長雨もときに一休みをするというもの。それから数日後、里にまといつく、霧を何層にも重ねたような雲がすっかり払われた。久しぶりに見る青い空だ。
ここぞとばかりに、村人は雨の間できなかった仕事をするのに慌ただしい。楓もりんも、なにやらとっかえひっかえ持ち出したり仕舞ったり、大忙しだ。それもようやく一段落ついて、りんは小さなせせらぎで手足を洗った。今日はたくさんのことを片付けられて、ほっとしていた。
「明日も晴れるかなぁ。もし雨になったら殺生丸さまの飾り房を作ろう……あっ、房はもう出来たんだった」
りんは小さく笑った。房作りを託された日から、もう数ヶ月がたつ。緋糸と向き合うのは、すっかりりんの習慣になっていた。
「はやく会いたいなぁ……」
ようやく完成したとなると、今度は一刻も早く渡したくてたまらない。流れに素足を洗わせたまま、りんは顔を仰のかせて小さく息を吐き出した。
……そしてそのままの姿で「あっ」と叫んだ。
頭上のはるか上、澄んだ青色の中を白銀の軌跡が翔けたのである。
「殺生丸さまだ!」
りんはせせらぎに珠のような飛沫を残して、村はずれへと走った。
木々は前日まで降り続いた雨で瑞々しく葉を広げている。りんの視界の先に、月の光を宿したような端正な姿が現れた。翡翠を連ねたような木立にたたずむ殺生丸は、りんには神々しくさえ見える。
「殺生丸さまっ」
駆け寄ると「息災か」と一言、にこりとするでもなく殺生丸は尋ねた。素っ気ない問いだが、りんはいつものように元気良く答える。
「はい! 殺生丸さまもお元気でしたか? 邪見さまは?」
「変わりない」
「よかった!」
たったそれだけの知らせが、りんにはこのうえもなく嬉しい。
そして今日は殺生丸に大切な物を渡す役目がある。走ってきたせいだけではない、鼓動が聞こえるのではないかというくらい胸が高鳴った。
「殺生丸さま、今日はお渡しするものがあるの」
「何だ」
りんは懐から桐の小箱を取り出すと、そっと蓋を開いた。
「ごめんなさい、すっかり遅くなっちゃった」
殺生丸はとりたてて表情を変えることもなく緋房を一瞥した。
「……出来たか」
「はい!」
りんの笑顔が輝く。
「あの、あたしが鎧に付けても構いませんか?」
殺生丸は無言のうちに肯定の意をあらわした。
あの日、手ずから髪を結ってくれたあの時から、りんは決心していた。殺生丸がそうしてくれたように、今度はりん自身の手で飾り房を付けるのだと。
「じっとしててね」
殺生丸は黙って直立している。つややかな緋房を手にとって、りんは爪先立った。
こんな時、りんが背伸びしなくてもいいように身を低くするなどということを殺生丸はしなかった。りんのほうもそんなことは求めていなかったし、それが当たり前だと思っている。
爪先立ちのまま、りんは緋房を注意深く鎧に結びつけた。恐る恐る左右の房を見比べたが、遜色なく思える。
重大な役目を終え、りんはやっと安堵の吐息をついた。半年近くかけて整えた飾り房が殺生丸の品位を落すことになっては台無しである。
すっかり安心した様子のりんだが、殺生丸の方はといえば少々困惑していた。
「……何をしている」
りんは殺生丸の胸に揺れる緋房に向け手を合わせ、なにやら一心に拝みはじめたのだ。命乞いで手を合わされたことは幾度もあるが、まるで神仏でも拝するように相対されるとそこはかとなく落ち着かない。
「……りん」
殺生丸が再び促すと、ようやくりんは片目をあけた。
「お願いをしているの」
小声でささやく。そうして、また目を閉じるとひとしきり祈りはじめた。
殺生丸は少し眉根を寄せたが、りんのするがままにさせた。物に願いをかけて何になる、と殺生丸は思う。だがなぜかりんの行為を止める気にはならなかった。
(殺生丸さまがずっとお元気でいられますように。ずっとずっとお元気でいられますように)
りんは心を込めて緋房に願った。
もう殺生丸に危険な目に遭って欲しくなかった。天に輝く月のように、いつまでも誇り高く、いつまでもそこに在って欲しかった。それは己の安泰無事よりも、りんにとってはかけがえのない願いだった。思いを込めたこの緋房が殺生丸の守りとなるのだとしたら、これほど嬉しいことはないと思えるのだ。
「気が済んだか」
ようやく手を下ろしたりんに、殺生丸は独り言でも言うように呟いた。
「はい!」
りんの笑顔を見ると苦情を言う気も失せる。いささか毒気を抜かれた態の殺生丸に、りんは少し心配そうに尋ねた。
「それ、あたしの結い紐だったけど付けてて大丈夫だよね?」
「何が言いたい」
「殺生丸さまの邪魔にならないかなぁ、って……」
りんは口ごもった。犬夜叉もかごめも大丈夫だと言ってくれたし、りんもそう思うが、殺生丸に害を与えることにならないだろうか。それに、殺生丸がそんなものをつけていてこわい妖怪たちの間で笑い者になったりしないだろうか。
「あのね、もしも……」
言い募ろうとするりんを殺生丸はさえぎった。
「私を誰だと思っている」
他者が聞けば冷ややかとも思える口調だが、大妖たる自信のこもった声色だった。
「どのような気を回しているのかは知らぬが、この殺生丸には無用のことだ」
りんは感嘆と憧憬の思いで殺生丸を見上げた。いつだって、殺生丸はりんにとって特別な存在だった。冷たいほどに秀麗なその横顔を見ていると、「そういえば殺生丸さまを脅かすほど強い妖怪なんていないよね」という気がしてくるのだった。
久しぶりに晴れ渡った初夏の空に、心地よい風が吹き渡っている。りんは翠の風に髪をなびかせながら眩しげに目を細めた。長雨に降り込められていた間に、これほどに野が光に満ちていたということを失念していた。
りんは近頃の日々の様子を次から次へと話して聞かせた。
「そうだ、かごめさまがね、結い紐と飾り房のこと『約束の品みたいね』って」
「約束?」
「わかんない。なんの約束だろう。『ろまんちっく』って言ってたけど、あちらの世界のしきたりか何かかな」
「くだらん」
殺生丸は素っ気ない口ぶりだ。りんは殺生丸の顔を覗き込む。
「殺生丸さまは『約束の品』のつもりでこれを交換したの?」
「知らん」
「知らん、って……」
殺生丸の無愛想極まりないな言い方がおかしかったのか、りんはたまらず噴き出した。
「そうだ、殺生丸さま! 約束をしませんか」
「何をだ」
「今度はもっとはやく会いに来てくれる、って」
初夏の陽光よりもきらきらと輝く瞳でりんは殺生丸を見上げる。
殺生丸はりんの瞳から目をそらすことが出来なかった。もう己の気持ちから逃げることも出来そうにない。
――そして、小さな約束はりんの願い通りになった。
それから数日、村は清々とした晴天に恵まれた。りんはつかの間の涼風に吹かれながら、澄んだ空に浮かぶ綿雲を殺生丸の白い毛皮に見立てては、かの妖怪が見とれるであろう笑顔で空を仰ぐのだった。
季節は雨の時期から、燃えるような夏へ向かおうとしていた。
<終>
2009.07.10 UP
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