【冬凪逢瀬】


 冬枯れの野に穏やかな陽が射している。この季節にしては珍しくあたたかな日だった。りんは枯色の道を村はずれへといそいだ。木々や草は寒さですっかりやられているが、今日ばかりは冬の太陽が気まぐれでも起こしたのか、薄金色の光がのんびりと彼らをあたためている。

「おう、そんなに急いでどうした」
 足早に行くりんに声をかけた者がいる。犬夜叉だ。なだらかな草地に寝転んで空を眺めていたらしい。
「犬夜叉さま、今日は妖怪退治お休み?」
「弥勒のとこにまたチビが生まれるからな。たまには休みだ。あ、お前あいつに会いに行くのか」
「はい!」
 りんは嬉しそうに答えた。犬夜叉はやれやれという顔をしている。
「おまえ、よくあんな奴と一緒にいるよなぁ」
 空を眺めたまま、犬夜叉は口に咥えた枯れ草の葉をぷらぷらさせた。
「うん、あたし殺生丸さまのこと大好きだもの」
 犬夜叉は「うへぇ」という顔をして草の葉を吹き出した。
「おまえは物好きなんだよ」
「そうかなぁ。犬夜叉さまは殺生丸さまの事お嫌いなの?」
「嫌いというか……」
 りんは嬉しくなって手を打ち合わせた。
「あっ、やっぱり好きなんだね!」
「んなわけねーだろ!」
 犬夜叉は頭を抱えた。
「どうしたの、犬夜叉さま?」
「あーもー、早く行っちまえ!」
「はーい!」
 りんはきらきらとした瞳で微笑むと、蝶のようにひらりと会釈をした。


「でね、犬夜叉さまってばあたしを追い払っちゃったの。それからずうっと走ってきたから息が切れちゃった!」
 りんは大きく深呼吸してから、思い出したようににっこりと笑った。行き交う人もない村はずれだ。ここで落ち合った殺生丸とりんは、何をするでもなく野を逍遥してひと時をすごす。
 殺生丸は枯れ薄の葉に渡る光を眺めながら、弟の事は聞き流して一言「息災だったか」と問うた。りんは笑顔を見せる。
「とっても! 村の人にいろんなこと教わったりして大忙しです。こんど珊瑚さまにまたお子が生まれるんだよ。あたしもお手伝いするんだ」
「そうか」
 りんはじつに生き生きとしている。村に預けたのは正解だったかもしれない、そう殺生丸は思った。りんは生きるためのさまざまな事を学び、人との失われた温かい絆を取り戻し、一人の人間の娘として幸せそうに暮らしている。

「それからね」と、りんは付け加えた。
「犬夜叉さまもかごめさまも珊瑚さまたちも、とても親切にしてくれるの。みんな大好き!」
「…………」
 殺生丸はその言葉を胸のうちで反芻した。
 大好き、大好き、大好き…………これほどに輝いた笑顔で大好きだと口にする。
(あの犬夜叉や喧しい人間達の事は大好きで、では私はどうなのだ。この殺生丸こそが共に旅をし、りんを宝のように守ってきたのだ………)

「りん、では私の事は嫌いか」
「えっ、そんなんじゃ……」
 突然の問い掛けにりんは戸惑った。なぜそんな事を聞くのか、分からない。
「好きか、嫌いか」
 一歩、殺生丸はりんへ詰め寄った。
「答えろ」
 りんの頬は朱の色に染まった。我知らず後ずさるが、その距離を離させぬよう殺生丸も歩を進める。我ながら大人げないと思うものの、返答を聞くまでは意地でも容赦できないような気になっていた。
「なぜ何も言わん」
 追い詰められたりんは、枯れ蔓に足をとられ尻餅をついた。

 りんは狼狽していた。しかしそれ以上に心乱れていたのは、他でもない殺生丸のほうかもしれなかった。動転して動けずにいるりんに馬乗りになると、猛禽が小鳥を襲うようにその喉笛を片手で押さえつけた。りんは小さく呻いたようだが、殺生丸は黙殺した。なぜ無邪気に大好きだと言ってくれないのか、殺生丸にはそれが口惜しくてならない。それは不安という気持ちに近かった。
「言え」
 金色の瞳は逃れようとするりんの瞳を捕らえる。間近で炯炯と光る殺生丸の眼光は、もう有無を言わさなかった。

 りんはもはや体を動かすことも目線をそらすことも出来なかった。おそろしい沈黙は返答せねば永劫に続くように思われる。やあやって口をひらいた。
「お慕い、しています」
 殺生丸はぱたりと腕を下ろすと緩慢に立ち上がった。りんらしくもない他人行儀な言葉だと殺生丸は思った。なぜ「大好き」ではいけないのか。
「そうか。日暮れが早い、お前も村に戻るがいい」
「殺生丸さま……」
 殺生丸は踵を返した。やがてりんが我が手を離れる日が来るのかもしれない、そしてこの自分の事も遠い存在になってしまうのかもしれない。
(だがどちらを選ぶかはりんが決める事だ。私が口出しする事ではないはずだ……)

「待って、殺生丸さま!」
 このまま殺生丸がいなくなってしまう、そんな錯覚に囚われてりんは叫んだ。乱れた裾を直す事も忘れて身を起こす。
「違うの! そうじゃなくて、殺生丸さまはただの『好き』じゃないの」
 熱い頬にぽろぽろと涙がこぼれる。
「うまく言えないけど、みんなとは違う大切な『好き』なの!」
 殺生丸の秀麗な横顔に、傍目には見えぬほどの感情の揺れが走った。振り返ると、りんは心細げに立ちつくしている。その姿は風に揺れる草よりもいっそう儚かった。

 りんは今、心底途方にくれていた。
 幼い日、無邪気に「大好き」だと伝えた事もある。だがいつの頃からか殺生丸本人にだけはどうしてもその言葉を口にできなくなっていた。殺生丸への想いは、言葉なんかでは表しきれない大切な気持ちだ。
(どう言えばいいの? 伝えられないよ……!)
 りんはその場にへたり込んだ。

 これほどに自分は愚かだったろうか、殺生丸は自問しないわけにはいかなかった。りんの首をつかんだ自分の爪が、いまは引きむしりたいほどに疎ましい。
 殺生丸は乱れのない足取りでりんの元に戻ると、一呼吸分置いて片膝をついた。そうして少しためらった後、幼子にするようにりんの頭に軽く手を置いた。驚いて見上げたりんの睫に涙が光っている。殺生丸は己に対して溜息をつかずにはいられない。
(私の狭量のせいでりんを泣かせてしまった。まったく、何をやっているのか……)
 かつて殺生丸という人を寄せ付けない湖に、「りん」というひとつの波紋が生じた。その波紋は本人の想像以上に大きく広がっているようだった。
 殺生丸は囁く。
「悪かった」
 それはいつもの秀麗な顔だったが、どこかすまなさそうに見えてりんの心に温かいものをよぎらせた。
(殺生丸さまってやさしいよね)
 涙の露が光る睫で、りんは笑みをのぞかせた。その笑顔を見ると殺生丸の瞳は凪いだ湖のようになる。
(きれい……)
 りんは泣いてしまった事さえ忘れて見入ってしまう。村の娘たちは殺生丸の瞳を称して「氷で出来たお月さま」だの言うが、りんにはその瞳が冷たいとは到底思えなかった。

 りんの間近に、その金色の瞳がある。じっと見ていると、殺生丸は無言のままりんの涙の痕に唇を寄せた。
「殺生丸さま?!」
 りんは驚いた様子だが、かまわず頬に唇をつけたまま呟いた。
「塩辛い」
「だって、涙だもの」
 唇の感触がくすぐったいのと子供のように泣いてしまったのがきまり悪くて、りんは恥ずかしそうに答えた。
 思い返せば、犬夜叉への問いは不躾だったとりんは反省しきりだ。
「あたし、なんだか犬夜叉さまに悪い事しちゃった」
「奴の事など気にする必要はない」
「でも……戻ったらお詫びしなくちゃ」
 どうやらりんが落ちついたと見ると、殺生丸は立ち上がった。
「送ってゆこう」
「え、いいよ、大丈夫」
 りんは慌てて首を振ったものの、殺生丸はさっさと歩き出してしまった。
「詫びだ」


 村への道を、りんは殺生丸のうしろを少し遅れながら歩いた。一見荒涼としたように見える冬の野も、殺生丸と歩けば何もかもが嬉しかった。あの頃の光景と同じだ。りんは小走りするように一歩大きく踏み出して殺生丸の横に並んだ。
「殺生丸さま、あのね、ずっと返しそびれていたの」
「何をだ?」
 りんは懐から美しい布切れに包まれたものを取り出した。開くと中には、以前りんが倒れた時にその手の中に残していった妖鎧の飾り房があった。
「ごめんなさい、ずっと片方だけなのに返せなくて」
 確かに今の妖鎧には緋房が一つしかついていなかった。いつも返さなければと思っていたのだが、別れぎわ殺生丸はさっさと行ってしまい渡せずじまいだったのだ。
 しかし殺生丸は興味なさげだ。
「いらん」
「でも片方じゃ……」

 すると、殺生丸はりんの手から緋房を取り上げた。そうして自分の掌に置いて一度握り、また開く動作をする。
 りんは目を見張った。不思議な事にそれは掌の中で緋色の結い紐に変わっている。
「すごい! どうして?!」
「これは人の世の物ではない」
 りんはすっかり驚いて殺生丸の手や結い紐をかわるがわる見つめた。いまどうやったの、もう一回見せてくれませんか、りんは殺生丸にせがんだ。殺生丸は小さくため息をつく。
「黙ってじっとしていろ」
「え?」
 殺生丸はりんを黙らせると、りんの髪へと手を伸ばした。そして驚いてただ見ているりんの、その結わえられた黒髪をほどいた。

 りんには不思議な感触だった。殺生丸に髪をほどかれた事なんて、今までただの一度も無かったから。
 ふさりと頬にかかる髪を殺生丸の端整な指先がかすめる、かき上げる。乱暴なようでいて、まるで風が髪をなぶるように優しかった。
 りんはわけもなく震えがはしるような気がして、目の前の殺生丸から目をそらした。
 殺生丸はさっきまで緋房だったはずの結い紐で、りんの髪を結う。髪に伝わる指の感覚が面映いようで、でも心地よかった。

「動いてもよい」
 律儀に殺生丸が告げた。りんが髪に触れると、艶やかな紐で前のようにきちんと結わえられている。
「殺生丸さま、これ……?」
「お前にやる」
「だけど房が片方になっちゃう」
「ではこれで片われを作ってみるか?」
 殺生丸は先程ほどいた結い紐を差し出した。
 これは以前りんのために届けたもので、美しい緋色の組紐だ。手間はかかるかもしれないが、これをほどけば房にする事もできるはずだった。

「はい! 交換だね……って本当は両方とも殺生丸さまのものだけど。ありがとう、殺生丸さま」
 りんは胸を躍らせた。殺生丸さまがいつまでもご息災でいられるよう願いを込めて房に作りなおそう、そして殺生丸さまがしてくれたように今度はあたしが鎧につけてさしあげよう、そう決心した。
(あたしの髪に殺生丸さまの緋房がある、殺生丸さまの鎧にあたしの結い紐がある……それってなんだか嬉しい)
 りんは殺生丸を見上げた。もう殺生丸はそっけなく遠くを見ていたが、りんにはこの上もなく大切な横顔だった。

 村までの道のりもあとわずかだ。
「今度はいつ会えますか」
 そう問うりんの表情は、この数年間でずいぶん大人びてきた。その黒い瞳がより自分の目線に近くなった事に、殺生丸は驚きを禁じえない。
(時の移り行くのは早いものだ……)
 殺生丸は胸が引き裂かれるような思いに襲われる。だがそのやるせないせつなさと同じく、眩暈するほどに甘やかな思いも確かに殺生丸のものだった。りんのために村を訪れているのか、それともりんに会いたいがために村を訪れているのか……。殺生丸は苦笑した。
「どうしたの?」
「何でもない。山の雪が融ける前にまた来る」

 寄り添うような足音が冬晴れの野にやわらかく響く。
 結い紐と鎧の片房は、枯れ色ばかりの冬の風景にあたたかな色を添えていた。


< 終 >












2009.01.21 UP
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