【夏衣】
ある夏の日の昼下がり、殺生丸は思いがけない所で思いがけない人物に遭遇した。雲のごとき「気」が天に渦巻いたかと思うと、殺生丸と邪見のゆくてに銀の髪を持つ妖怪が突如として降り立ったのだ。殺生丸は最前から気づいていたのだろう、すっかり分かっていたというように問いかけた。
「……何の用だ」
「おやおや、ご挨拶だこと。ある妖怪が村娘に貢いでいると聞いてな。面白そうだから見に来たのだ」
そう言いながら、金色の瞳がさも愉快そうに細まった。
邪見は腰を抜かした。
「御母堂さま……!」
「そのような下らぬことを聞きつけて、わざわざのご足労とは」
殺生丸も負けじと皮肉をこめる。まさしくとある村へ向かおうという時だった。いかにも「厄介な邪魔が入った」と言いたげである。
殺生丸の母はそんな息子の様子などとんとお構いなし。唐突に「ぱっ」、と目の前に反物を広げて見せた。
「どうだ、よい品であろう」
涼しげに織られたその布地には、胡蝶の文様が美しく染めあげられている。殺生丸から見ても、丹精込めて仕上げられた質の良いものだと分かった。だが突然現れていったい何をさせようというのか……、殺生丸は母の意図をはかりかねた。
しかし彼女はそんな戸惑いなど、知らぬふりである。
「そなた、年頃の娘の好みなど知るまい。 どうにもこうにも朴念仁なことよの」
現れた途端の言いたい放題だが、殺生丸はぐうの音も出なかった。
村で暮らすりんへ届ける着物、そして身の回りのこまごました品々、それらは全てりんが好みそうだと思われる物を選んでいるが、はたしてそれが好みに合っているものか、少々心もとない。なにせ、りんはどんなものを受け取っても本当に嬉しそうだから。喜んでいるのだからそれで良いと思いはするものの、そう言われれば女人の好むものなど確かに見当がつかない。
「というわけで、そなたにこれを託そうと思ってな」
いささか沈黙した殺生丸に、彼の母は反物をおしつけた。
「もって行くがいい。ちなみに柄はこの母の衣装と揃いにして作らせた。どうだ、可愛かろう」
「………揃い……」
ありがたいのかありがたくないのか分からなくなりながら、殺生丸はそれを受け取った。
母妖怪の元を辞すると、殺生丸の姿はたちまち空のかなたへ小さくなる。その背中は「ついてくるな」と言っているようだ。
彼女が声をかけたのは、殺生丸の後ろ姿が芥子粒のように遠くなってからだった。
「なあに、わたくしとてあの娘がどのようなものを好むか分かりはしない。ただ、そなたにそれを持って行ってほしくてな」
殺生丸の母は、光の溢れた夏の空をまぶしそうに見あげていた。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
その一刻ほどのち、殺生丸とりんは夕暮れの川原を歩いていた。
早くも日は落ちはじめ、雲は茜色に彩られている。殺生丸の髪は夕空の色をうつし、ほのかに薄紅の光を宿らせていた。
「今日はずいぶん遅かったんだね」
このような時刻に訪れることはまれだったので、りんは小首をかしげた。
だが、いろいろと説明するのは殺生丸にはわずらわしい。「これを持って来た」、と切り口上に言った。
「きれい……!」
差し出された反物を手に取ると、りんは驚きの表情で殺生丸とそれを交互に見つめた。
「気に入ったか?」
「うんっ」
りんは手にした反物の蝶の模様をそっと手でなぞった。いま着ているものより、ずっと大人びた柄だ。りんはすっかり嬉しくなってしまった。(あたし、早く大きくなりたい)、改めてそう思った。
こんな柄が似合うような大人になれば、それだけ早く殺生丸の元に行けるような気がする。しかもこれはあつらえられた着物ではなく、反物だ。自分で自分の着る物を仕立てる、それは一人前になってゆくための大切な使命のようにも思えた。りんは胡蝶文様の布地で縫った小袖を想像し、飛び立つように胸が踊った。このあでやかな意匠ならば、きっと殺生丸の隣に並んでもそんなには年少に見えないに違いないと思った。
けれど、この嬉しい贈り物には少々気がかりがある。
「殺生丸さま、これとても高価そうだよ? こんな立派なもの頂けないよ」
「気にすることはない。貰い物だ」
殺生丸はこともなげに答えた。
「貰い物、なの?」
いまいち事情がのみこめない。しかしそれ以上は話す気がないらしいのを見て、詮索するのはやめにした。殺生丸が気にすることはないと言った以上、ぐずぐずと尋ねるのもかえって非礼にあたろうというものだった。
「ありがとう! 今度来てくれるときまでに、自分で仕立てられるようにがんばるね!」
嬉しくてたまらないというようなりんの笑顔である。反物のもたらした予想以上の効果に、殺生丸は満足していた。
りんは反物の包みを大切そうにかかえた。
いつのまにか、あたりは穏やかな薄墨色に覆われはじめている。この時間になると、昼間の燃えるような暑さもやわらいで涼しげな虫の声も聞かれるようになる。川原にも足元のそこかしこから玻璃のように澄んだ音が零れていた。
殺生丸の少しうしろを歩きながら、りんは同じようにこのあたりを歩く村の若い衆と娘達の姿を思い出していた。こんなふうに美しい夕べ、村の恋人たちは愛を語らいながらこの川原を歩くのだった。そんな姿をときおり目にしながら、「もしあれが殺生丸さまとあたしだったら、どんなに素敵だろう」と思ったものだった。
包みを抱きしめながら、りんは微笑んだ。
「こうやって歩いていると、まるで想い人どうしみたいだね」
殺生丸は返答に詰まった。
りんの口から「想い人」などという言葉が出てくるとは思ってもいなかった。
それに……。
(それは私が想い人ではない、ということか)
殺生丸はなんとなくため息が出るような心持ちになると同時に、不思議と可笑しくなった。りんの言葉はあまりにも無邪気だ。そんな事をぬけぬけと言ってしまうりんを愛らしいと思う。
殺生丸は一抹の戸惑いを感じながらも、分別くさく腹の内でうなずいた。
(年頃だとか想い人などというものは、りんにはまだ早すぎる)
りんと殺生丸双方とも、想いの変化を悟るには気持ちがまだ幼な過ぎたかもしれない。殺生丸のあとを歩くりんの足音が、あの頃と少しづつ変わり始めていることに彼が気づいたかどうか……。
川沿いを逍遥して村が見渡せるあたりまで来ると、りんは名残惜しそうに立ち止まった。
「じゃあ、ここで」
夏の夕日は、瞬く間に沈もうとしている。少なくとも、りんにはそう思えた。
殺生丸は必要以上に村に近づこうとしない。近づけばいろいろと「面倒なこと」になると、殺生丸は数回の往訪で身にしみていたからだ。
りんは、布地の包みをそっと胸に抱きしめた。
「この反物、きっと上手に仕立てるね」
「急ぐことはない。お前は学ばねばならぬ事が多いのだろう?」
そう言う殺生丸に頷いて、りんは宣言した。
「楓さまたちに色々教わるよ。もちろんお裁縫のことも!」
りんは輝く瞳で殺生丸を見上げた。
黄昏の中、夏の夕空の投げかける最後の光の一片が、りんの晴れやかな笑顔を照らし出していた。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
「邪見、ゆくぞ」
村はずれで待っていた老妖怪をともない、殺生丸はこの地をあとにした。空を翔る殺生丸の足下には、夕闇に包まれた村が墨で描いたように静かに休息の時間を迎えている。きっと、りんはまだ手を振っていることだろう。
それにしても……と殺生丸は思った。
(母上にひとつ借りができたな)
りんが一人前に仕立物が出来るようになるのも、そう遠い先のことではないように思われた。
(また反物でも持ってゆくか……)
そんなことを考えながら、銀色の軌跡は夏の薄暮を裂いて飛翔する。殺生丸の胸には、希望に満ちたりんの表情が沈まない太陽のようにずっと照り映えていた。
< 終 >
2008.08.22 UP
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