【初桜】
白く霞をかけた春の空を、ひとすじの軌跡が駆ける。ひるがえるは銀の髪、きらめくは金の瞳。その瞳は地上におぼろげな何かを認め、阿吽の足をひと時とどめさせた。屋敷に戻る空の上の事である。眼下の若い春の野には、うすべにの濃淡が広がっていた。
「殺生丸さま、おかえりなさい!」
屋敷に戻るやいなや、いつ気付いたのかりんが駆け寄ってくる。まれにこの出迎えが間に合わない事もあったが、そういうときは何となく物足りない気がしてしまうから不思議だった。
殺生丸は手にした桜の枝を無造作に差し出した。帰館の途中で見つけた桜の群生から、一枝手折ってきたのだ。しかし、彼は持ち帰ったものを見て憮然とする事になる。
空を駆けたせいだろう、あらかたの花弁は散り落ちて見るも無惨。残っているのは五、六輪ばかりだった。
(たかが空を駆けただけで散ってしまうとはな……)
柄にもなく土産をなどと思いついたが、今やそれもむなしいものになってしまった。殺生丸は興がそがれたとばかりに桜の枝を放り投げた。
「捨てちゃうの?」
りんは駆け寄ると、壊れ物でも抱くように桜の枝を拾い上げた。桜など毎年咲いて何度も目にしているはずなのに、まるで初めて目にするように瞳を輝かせる。
「きれい! 桜、もう咲いてるんだね。これ貰ってもいい?」
殺生丸は面倒臭そうに答えた。
「好きにしろ」
その夜、殺生丸はりんの部屋を訪れた。とりたてて何をするでもないが、今日は何をしただの何を食っただの、他愛もないりんのおしゃべりを聞くのが、なぜか嫌いではなかった。それは、りんが今よりずっと小さい頃からの習慣だ。
そうやっていつものように部屋へと足を踏み入れた殺生丸は、何やら鼻をくすぐる香りに気がついた。
(あの桜か……)
目を移せば、部屋の飾り棚の小さな花活け……いやどう見ても湯呑み茶碗なのだが、そこに散るのをまぬがれた数輪の桜花が、ちんまりと活けてあった。ほのかな香気が小さな花の間から匂い立っている。春の宵のしっとりとした夜気が、その芳香をさらに強くしているかのようだ。
「殺生丸さま、ありがとう。 この桜、とっても綺麗だよ」
瞳をきらきらとさせて、りんは言う。くだらぬ物を持ち帰ったものだと思ったが、あながちそうでもなかったらしい。
しかし、なぜか気にかかる。たかが桜数輪でこのように香るものだろうか。
「どうしたの、殺生丸さま」
殺生丸は香りの出処を見つけ、そこにずい、と近寄った。
(ここか……)
鋭い爪の先で、りんの小袖のえりをはだけさせる。りんは驚いて身をひいたが、殺生丸はかまわずえりの合わせ目に手を滑り込ませた。
「殺生丸さま?!」
「じっとしていろ」
身を縮めたりんの胸元から、殺生丸は小さな薄様に包まれた物を取り出した。香りの元は、これだ。かげろうの羽根のように薄い紙の奥から、淡い紅色がほんのりと透けている。桜の花びらだ。
「なぜこんなものを持っている」
「これ? 花から取れちゃったの」
りんは目をしばたかせて言う。
「何だか捨てられなくて。ここに入れておけば、殺生丸さまのとってきたくれたお花とずっと一緒にいられるから」
わずかな花弁だが、りんの体温にあたためられて強く香ったのだろう。
りんは、ときに殺生丸の虚を衝く。それは言葉に置き換えれば「驚き」であったり、得体の知れない「哀しみ」であったり、あるときは胸を締め付けられるような「いとしさ」であったりもする。
(花などあちこちに咲き、やがては必ず散り落ちるもの。そんな物を大切にしまいこんでいたのか……)
殺生丸は形容しがたい感情に襲われた。それは、春疾風のように殺生丸の心をゆさぶる。
もっと「りん」の香りを……ここにいる「りん」を確かめたい……
殺生丸は、りんの肩をつかんだ。
「わっ」
りんは素っ頓狂な声を上げた。殺生丸に組み敷かれ、抗うことも知らず身体を固くする。何が起きたのか、突然の事にどうすればいいのか分からない。真正面に見上げる殺生丸の瞳が、まるで初めて見るもののように思えた。
殺生丸はりんの髪をかきわけると、うなじに顔を寄せた。りんの髪は幼い頃よりずっと伸びて、手にとれば想像以上にやわらかだった。そこに顔をうずめると、仄々と温かく、春の宵にも関わらず陽光の気配がした。
(まるで陽だまりだ……)
心地良い……心地良い、りんの匂い。
陽だまりの暖かさも、このような匂いも、かつて己が忌避した類のものではなかったか。比類なき力を手にし、父を越える大妖怪になる事が殺生丸の全て。そのためには生ぬるい情など、妨げにしかなり得ない……はずだった。
それがこれほどに自分の心を占めている、おかしな話だ……、そんな事をぼんやりと考えながら、殺生丸は思うままりんの香りを味わい、りんの柔らかな髪をもてあそびつづけた。
……このまま夜明けまでりんの香りを味わい尽くそうか。
微かな燈火に照らされた殺生丸の瞳が、揺れる炎を映して急に強い金色に光った。
火影が落ちる床に、りんの髪が乱れる。やわらかな闇とあえかな灯火の中、りんの匂いが殺生丸をつつんでいる。殺生丸は我を忘れた。
「せ、殺生丸さま……いたいよ」
りんは殺生丸の下で身をよじった。その口から苦しげな声が漏れる。我に返って己が手を見れば、華奢な肩を骨が軋むほどに押さえつけていた。りんの髪の香りを嗅ぐうちに、その掌には思いのほか強い力が篭もっていたらしい。殺生丸は弾かれたように身を起こした。あの散らせてしまった桜の一枝が唐突に脳裏に浮かび、殺生丸は愕然とした。
おそるおそる手を離すと、身体の自由を取り戻してほっとしたのか、りんの肩から力が抜けるのが分かった。そうしてりんは起き上がると、えり元や裾をおぼつかない手つきで整えた。その仕草には、いつ身に付けたのか少女らしい含羞の色がある。殺生丸は、らしくもなく当惑して問うた。
「痛むか?」
するとさっきまでの事など忘れてしまったかのように、りんは笑った。
「ううん、平気。あたしけっこう頑丈なんだ。この前だって木から落ちたけど大丈夫だったし、川で転んだ時もすぐ治ったし」
……どこが頑丈なものか。たったわずかの事で散ってしまう、あの桜花のようにか弱き存在であるものを。
「もう寝よ」
殺生丸は立ち上がると、いつもと変わらぬかに見える足取りでりんの部屋を後にする。
今日は調子が狂ってしかたがない。
廊下へ出る直前になって、思い出したように口にした。
「明日、桜を見に行くか?」
りんは輝く瞳で殺生丸を見あげた。殺生丸は端正な立ち姿のまま、振り返りもしない。けれど、りんにはそれだけで充分だった。
「うん!、約束!」
その夜、殺生丸は一人寝に夢を見た。どこまでも薄紅の、ほのかに桜の香りのする夢だった。
春の夜は大妖に甘やかな幻影を見せながら、おだやかに、おだやかに更けてゆく。明日はきっと良い桜日和になるだろう。
< 終 >
2008.03.28 UP
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