【春雷】


 夜明け前の空に、遠く雷が鳴っている。その音を、りんは夜具にくるまったまま聞くともなしに聞いていた。冬から春に季節が移る頃、よくこんなふうに雷が鳴る。行くまいとする冬と訪れようとする春がせめぎあい、雷鳴となるという。りんはその春告げる音を聞きながら、昨日の出来事を思い出していた。


* * * * * * * * * * * * * * * * *


 昨日は朝からの荒れ模様で、一行はうらぶれた屋敷に足止めをくっていた。屋敷は昔いくさで荒らされたのであろう、酷いありさまであったが、屋根がある分りんにとっては有難かった。みぞれ混じりの凍てついた雨が、時折横なぐりに吹きつける。殺生丸には何ほどでもないが、りんが山道をゆくには少々こたえる空模様だ。この休息も、殺生丸が人間の同行者のことを配慮したのは明白だった。
(お礼言わなくちゃ)
 りんは殺生丸を探した。
 この冬はとりわけ寒さが厳しく、吹雪にあっては足止め、一面の深い積雪にあっては足止めという具合だった。自分がいなければ、殺生丸の旅路もかように遅々としたものではなかっただろう。殺生丸は要らざることだと一蹴するかもしれないが、きちんと礼を言っておきたかった。

 屋敷のまわり、それから屋敷を囲む林をりんは探した。廃寺や廃屋を仮の宿とするとき、殺生丸は積極的には中で休もうとはしない。「高貴なお血筋でいらっしゃるのだぞ」と、邪見は事あるごとに聞かせてくれるが、当の殺生丸には野宿のほうが性に合っているらしい。はたから見れば何とも面妖なことであるが、かの一行には至極あたりまえの光景だった。

「殺生丸さま!」
 はたして、殺生丸はそこにいた。一本の大木に背を預け、瞑想するかのように黙然と座している。初めて会ったときも、こんな木立の中だった。りんは数年前の光景を思い浮かべた。あのときりんは、一人ぼっちの傷ついた獣を森の中で見つけたのだ。血色の瞳で威嚇されたことも、今では懐かしい。

 りんが声をかけると、殺生丸は血色とは程遠い、美しい金色の瞳で声の主を見かえした。
「殺生丸さま、お宿みつけてくれてありがとう」
 りんはぺこりと頭を下げる。
「この雨では大して先に進まん。だから休んだまでだ」
 殺生丸は興味なさげに返した。恩着せがましいとか、そういう類の卑しさとは無縁の殺生丸である。だからこそ、心に染みる。
「うん、ありがとう」
 りんはもう一度頭を下げた。
(お天気が良くなったら、はりきって歩かなきゃ!)
 顔を上げようとしたりんの視界に、そのとき鋭い光が走った。

 暗く沈んだ空が、一瞬ぱっと明るくなる。頭を上げると、殺生丸も立ち上がり空を見上げていた。
「春雷か……」
 冷たい雨を落す黒雲の間から、裂くような稲妻が走る。稲妻は、音もなく明滅を繰り返していた。
(きれい……)
 りんは、その稲光に殺生丸の眼光を重ねた。今まで何度か目にしてきた、戦いに臨んだ時の殺生丸の眼光。その苛烈ともいえる煌きは、りんにとってはこの稲妻のように、人知を超えた神の領域にさえ思えるのだ。
 身に降りかかる氷雨も忘れて、りんは春雷に見入っていた。
「どうした」
 珍しく、殺生丸が問うた。
 「殺生丸さま、あの稲妻、殺生丸さまに似……!」

 言葉は、地面を振るわせる大音響とりんの悲鳴で遮られた。稲光だけではあきたらず、烈しい霹靂を伴って近くに落雷したのである。
 りんの瞼の裏を、閃光の余韻が荒っぽく瞬く。
 そのとき、殺生丸は硬直していた。落雷のせいではない。りんが己の胸にしがみついてきたからである。反射的に抱きとめようとして、……腕を止めた。

「りん、離れよ」
 ひんやりとした声に、りんは我に返った。慌てて身を離す。殺生丸の両腕は、中途半端な位置からゆっくりと下ろされた。
 稲妻にすっかり見とれていたりんは、あの霹靂に不意打ちをくってしまった。我知らずしがみついてしまったが、殺生丸に嫌な思いをさせてしまったらしい。普段であればこんな失態、しようはずがないのだ。
「ごめんなさい」
 りんは身を縮めた。申し訳ないと思うと同時に、なぜか寂しい。
(そういえば、小さい頃はもっと普通にしてくれてた。あたしのこと、ほんとは迷惑なのかな……)
 りんは瞳をあげた。
「殺生丸さま……」

 そのとき、りんは見た。殺生丸の瞳が動揺をあらわして揺れているのを。
「殺生丸さま?」
「……早く戻れ。雨が激しくなる」
 その日、殺生丸はりんの休む屋敷には戻って来なかった。


* * * * * * * * * * * * * * * * *


 夜具の中で寝返りをうちながら、りんはどんな顔をして殺生丸に会おう、そんなことをとりとめもなく考えていた。別れ際の殺生丸の声音が耳に残って離れない。りんはふとある気持ちに思い当たって、首をすくめた。そんなことをすればよけい嫌がられるかもしれない。けれど、あの時の殺生丸を「抱きしめたい」と感じてしまったのだ。

「どうやら雨は上がりそうですな」
 旅装を整え、邪見が言う。いつしか、殺生丸も戻ってきていた。
「食事をとったら、行くぞ」
 そう告げる殺生丸を、りんはおそるおそる見あげた。声も態度もいつもの殺生丸のように、見えた。
(あれ?)
 ぽかんとしているりんを邪見がせかした。
「さっさと飯を食え。今は冬と春が闘っておるからこう天気も荒れるが、春はもうすぐじゃぞ。しっかり食って先を急がねばならん」
 りんは、やがて来る春を思い描いた。そこに、今までと同じように、殺生丸と共に在りたいと思った。
「うん! すぐ食べるから待ってて!」
 ずっと、ずっと一緒にいたい。
 そっとかのひとを見ると、殺生丸は遠い灰色の空の先を眺めていた。

 殺生丸の視線のはるか先、次の地へ春雷をもたらすであろう雲が渦巻いている。
(春は近い、か……)
 ……抱きしめてしまったら、何かが壊れてしまうような気がした。己の心にある情が、今や数年前とは変化していることに、不本意ながら殺生丸は気付いていた。一歩踏み出してしまったら、「保護」以上の想いを持ってりんに触れてしまうかもしれない。そして、それはりんを傷つける結果になるかもしれない。りんは自分の守るべき連れであって、それ以下でもそれ以上でもないはずだった。なのに、自分は何を翻弄されているのか。己の行動も不可解ならば、その心理も不可解だった。
(くだらぬことだ……)


 春雷は万物に等しく春を告げるだろう。
 妖怪と人間の娘にも、それは訪れるに違いなかった。


< 終 >












2008.01.18 UP
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