【居る所、帰る所】


 喉の渇きを覚えて、寝屋着姿のりんは目をさました。寝所の中は暗かったが、もうすぐ夜明けという刻限のようだった。板戸の向こうから、寝そびれた鈴虫の鳴声が聞こえている。りんはゆっくりと身を起こすと、隣りに臥している殺生丸に向き直った。暗い寝所の中でも淡く燐光を発しているような銀色の髪が、美しい流水模様を描いている。
(月夜の泉みたい……)
 りんは息をのんだ。無意識にその銀髪に触れようとして、手を止めた。なぜだか分からないが、触れてはいけないような気がした。そのかわり、殺生丸の指先にそっと触れる。りんの、「心配しないで」の合図である。眠っているように見えても感覚を研ぎ澄ましたままの殺生丸である、黙って寝所を出て余計な心配をさせたくなかった。
 指先に触れられても、殺生丸は微動だにしない。これが彼なりの「承知した」、であるらしい。

 静かに戸を開けると、あたりには朝霧が立ち込めていた。喉を潤して戻って来たりんだが、流れる霧がおもしろく、縁先に腰をおろして白い濃淡を眺める事にした。まだぼんやりした頭に、薄闇のなかの霧は夢とも現ともつかぬ感覚で心地良い。けれど、こうやってじっとしていると、体の芯にひそむ鈍い痛みが否応無く思い起こされた。昨夜の閨での殺生丸、そして自分……。りんは頬が熱くなるのを自覚した。

 あの頃は、殺生丸と寄り添う事になろうなどとは想像だにしなかった。自分と殺生丸は何もかもが違う。強さも、美しさも、種族も、何もかも。ただ一緒にいたい一心で、その背中を見あげ追いかけてきた。
(立派で強い殺生丸さま……!)
 けれどりんには、殺生丸の心にぽっかり穴が開いてるような気がしていた。生い立ちも、置かれた境遇も違う。だが、孤独な時代を過してきたりんには、彼の気持ちが少し分かるような気がした。
(殺生丸さまは、『ひとりぼっち』を知ってる……)
 そして、長い旅の間にりんはある事に気づいた。あの氷のような態度の奥の、不器用ないたわりの心に。どんなに慕わしくても、どこか殺生丸は遠いような気がしていた。妖怪と人間、その距離は変える事のできない現実なのかもしれない。けれど、りんの中でいつしか慕わしさの意味が変化していた。そして今、二人は………。
 りんの紅潮した頬を、霧がそっと撫でてゆく。

 殺生丸の元に戻ると、りんはすぐに寝入ってしまった。眠りに落ちて再び目を覚ました時には、もうかのひとの姿は無い。今朝触れた指先の感覚が、今は寂しかった。だが、殺生丸にはしなくてはならない事もまだ多いのだ。
 りんは見送りの挨拶も出来なかった事を悔やみつつ、邪見にいつ戻るか訊ねてみた。すると、今度はそう長い事ではないだろうと言う。りんは、殺生丸の帰りは三日後だと「あたり」をつけた。幼い頃から共に旅をしていて、りんには勘とも言うべき「殺生丸察知能力」が身についたらしく、たびたび殺生丸の帰りを待ち構えていたものである。
「殺生丸さま、きっとあと三日でお帰りになるよ」
「ほう、自信満々じゃなぁ」
「いってらっしゃいは言いそびれちゃったから、お帰りなさいはちゃんと言うんだ」
 りんは笑った。

* * * * * * * * * * * * * * * * *


 三日後、りんは部屋に活ける花を摘みながら殺生丸を待つ事にした。秋の野はなかなかに花が豊かで、活けるには多すぎるほど摘んだが、夕方になっても殺生丸は戻って来なかった。
(今回は外れちゃったかなぁ……)
 青かった空は次第に茜色に変わり、傾いた太陽が野を金色に照らし始めた。りんは、彼女の世話を焼くのが楽しくて仕方ないといったふうの老妖怪の顔を思い出した。待つことには慣れている自分だが、そろそろ帰らねば邪見は心配するだろう。
(あと少しだけ、もう少しだけ)
 東の果てを振り返ると、はや夜の色に染まり始めている。
(まだ。あと少しだけ)

 ……と、薄の野を突然一陣の風が圧した。慌てて花かごと髪を押さえる。光るさざ波が一瞬にして金色の海原を作った。その金色の彼方には、見まごうかたなき銀。
「殺生丸さま!」
 薄と秋草を掻き分けてりんは走った。

 高く茂った秋草がりんの行く手を阻む。ふちの鋭い葉で指を切ったが、少しも気にならなかった。待っていた間にあたためられた脚力が、いっときに解き放たれた観である。行く手を阻む草叢がもどかしい。やっとの思いで殺生丸の前にたどり着いたが、何を言う間もなくりんは抱きすくめられてしまった。勢い込んで二人とも秋の野に倒れ込む。りんの摘んだ花が、撒くような軌跡を描いて野に散らばった。

 殺生丸は半身を起こすと、覆い被さるようにしてりんに口づけをした。たった数日の事なのに、狂おしいほど焦がれたこの匂い。命の長い妖怪の事、それは瞬くような一刹那であったはずなのに、彼にとっては長すぎる「刹那」であった。
 かつての彼には、時の過ぎる事など何の意味も持たなかった。他者も、花も、風も、光も。けれど今は違う。その全て、ではないが、いとおしいと言っていい。ことに、それを教えてくれたこの若妻にかけては、己よりもいとおしい。もう離す事など出来ようはずもない……。
 金色の瞳がまじろぎもせずりんを見つめている。

 りんは鼓動が早まるのを感じた。黙っているのが居たたまれなくなって、あたふたと言い訳のようにして言う。
「殺生丸さま、せっかく摘んだお花がつぶれちゃうよ」
 殺生丸のほうはといえば全くのお構いなし、だ。りんの腕を掴むと、血の滲んだ指を見て眉根を寄せた。
「……走って来ずともよい」
 己とて一刻でも早くりんの元に帰りたかったくせに、そんな言葉が出てしまう。殺生丸はりんの指に唇を寄せると、あまい血を舌で舐め取った。りんの鼓動が一拍、拍子を飛ばして高鳴る。
「あの、えっと、大丈夫、心配しないで」
 真っ直ぐな眼差しが眩しすぎて、りんは殺生丸の髪へと目を移した。三日まえ寝間で見た銀の泉が、今日は夕暮れの残光を透かし、光る滝となってりんに覆い被さっている。
(不思議。あの夜は月の銀色、今はお日様の金色……)
 ここに至って、りんは肝心な事を思い出した。これを言うために、ここで待ちかまえていたのだ。寂しかった指先には、いま殺生丸の唇がある。殺生丸の瞳を見あげると、りんの表情に自然と笑みがこぼれた。
「おかえりなさい、殺生丸さま」

 秋の日暮れは早い。いつしか陽も入り果てて、雲は緋に藍に綾を織りなしている。黄昏に包まれた薄の野は、二人の姿をやわらかな闇でつつんでいった。季節移れば、この花野もやがて白銀の雪に覆われるだろう。


< 終 >












2007.12.07 UP
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