【朝露野菊】
空気を金色に光らせて、秋の空が明けた。日を追うごとにひんやりと冷たさを増すその空気に、邪見は大きなくしゃみをひとつした。
「やれやれ、殺生丸さまもまだお目覚めにならぬのか」
りんに朝餉を食べさせる時間はとっくに過ぎている。しかし今朝はどうしたことか、二人ともまだ出て来ない。
遠く離れた一族の者を訪ね、殺生丸は数日間屋敷を留守にしていた。戻って来たのが昨夜。祝言を挙げてからまだ一年にも満たぬ彼らである、長閑な朝を邪魔をするのはおこがましいが、殺生丸が戻って喜色溢れるりんの顔を邪見は見たくてならない。寝所の前まで来ると、小さく声をかけた。
「畏れながら、りんの朝餉の刻限でございます」
寝所から返答はない。邪見はもう一度声をかける。耳の鋭い殺生丸は邪見の足音だけでも訪いを知るが、どうしたことか、今朝ばかりは寝所から物音一つ聞こえなかった。
(ややや、わしを置いてりんと散歩にでも出られたか)
やれやれとばかりに戸を開いた邪見だが、開けた戸を慌ててぴしゃりと閉めることになる。
寝所の奥にはただひとり、りんだけだった。褥には乱れた黒髪が這い、無残にはだけた寝屋着からは華奢な肢体がぐったりと放りだされている。それは無防備に晒されて、むしろ裸に剥かれたまま転がっていると言ったほうが正しい。
長らくりんと旅をしていた邪見である、りんの表情からたいていは読み取れる。ゆえに遠目でも一目でわかった。
……りんは気を失っていた。
邪見は憤慨した。いとおしさゆえに時に殺生丸が激しすぎるくらいりんを愛しむのも、薄々気づいてはいた。今朝はその結果であろう。それは自分のとやかく言うことではない、と邪見は思う。だが気を失ったをりんを放り棄てておくとは。
(御自分だけが宜しければいいのですか!? 事が済めばりんは用済みでございますか?)
邪見は主(あるじ)の姿をさがして屋敷中を駆けめぐった。
あんまりでございます、あんまりでございます……! 走り回るうちに、邪見の大きな眼は潤んでいた。孫娘とも思うりんの無残な姿に衝撃を感じていた。
探してもいないはず、邪見が屋敷を出ると、果たして秋の野から殺生丸が戻ってくるところだった。
朝日を背に歩み来る殺生丸の前に立ちふさがって、邪見は拳を握りしめた。殺生丸はといえば睨めつける邪見など見えぬかのように、玲瓏な顔で屋敷へと歩を進め来る。いつもの殺生丸だ。
「……殺生丸さま、散策にございますか」
我知らず怒りに語尾が震えた。どんな言葉でこの冷酷な主を罵ってやろうか! しかし、脳裏に渦巻く罵詈雑言は、殺生丸が邪見を無視してやり過ごした瞬間、真っ白に消し飛んでしまった。呆気にとられた邪見の脇を、殺生丸は悠然と歩み去る。邪見はぼんやりとその場に座りこんでしまった。
一瞬のことだった、殺生丸から花の香りがしたのである。苦くも凛とした香り。殺生丸が歩んだ後を慕って、まだその香りが残っている。菊花だった。
振り返って見れば殺生丸の右手には数輪の花があった。この時期屋敷の外に咲く、薄紫色の野菊だ。
(殺生丸さまは、りんにあれを……)
邪見は、大きく息をついた。激したまま殺生丸を追ってきたが、なんというおせっかいであったことか。今までとて、主は主なりにりんを大切にしていたではないか。座りこんだまま、邪見は殺生丸の不器用極まりない愛情に呆れ、また安堵もしていた。どうせあの菊花を無造作に放りだして「摘んで来た」とか、気を失ったままのりんに一言告げるのであろう。そしてやがて目覚めたりんは野菊を見つけて……。それからあとは想像するまでもない。
野の菊が人知れず薫るのと同じように、殺生丸もりんを想う。誰一人として知らずともよい、知る必要もない。それがどれほど狂おしく深いものか、どれほど全身全霊をかけた想いであるか。りんのために摘んだあの野菊がひそやかな香りを物語るように、殺生丸は己なりにりんを愛してゆくのだろう。
とんだことに時間をくってしまったわい、邪見は大儀そうに立ち上がると、服の埃を払っていそいそと屋敷へと向かった。
(これでもわし、忙しいんだから)
やがて陽が高く昇るころには、りんがあの野菊を手に邪見を訪れるだろう。殺生丸がくれたのだ、嬉しくてたまらない!、という笑顔で。そして殺生丸は何事も無かったかのように涼しい顔であらぬかたを眺めやっているのだろう。甘い菓子でも作っておくか……、邪見は奥へと向かいながら思案していた。
秋の太陽は、澄明な光であたりを照らしはじめている。野にはりんのそばにあるのと同じ、薄紫色の菊花が揺れていた。
< 終 >
2006.10.29 UP
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