【ある雨の日】


 ここ数日、大気が重く湿っている。雨の多い時期に入ったらしい。殺生丸は季節の移りかわりなどには何ら頓着ないが、しばしば雨露しのぐ場所を求めることがある。さいきんその割合がふえたのは、連れが一人増えたことにも関係しているかもしれない。

「邪見、雨が来る」
 鈍色に雲が垂れこめた空を見上げ、殺生丸は呟いた。背後の老僕従を振りかえりもしない。
「は、さようでございますな」
 きょろきょろと辺りを見まわした邪見は「そうじゃそうじゃ雨が来ますなぁ」としたり顔で頷いては、いかにも暢気そうに殺生丸のあとをついて歩く。
(……こやつ、みなまで言わねば分からぬのか)
 殺生丸は歩を止め、察しの悪いその下僕を横目で見据えた。長年従った従者である、一言で分かりそうなものだが、この老妖怪はときにおそろしく鈍感になる。今日も今日とて、蹴りを頂戴する寸前でようやく冷たい視線に気づくという次第。
「はわわわわっ、雨宿りできる場所を探してまいります!」
 転げるように、その烏帽子姿が駆けて行く。空はそんな僅かのあいだにも雲を増し、もはや夕刻のような暗さである。

「雨宿りの場所をさがしに行ったの?」
 主従の少しあとを見え隠れについて歩いていたりんは、栗鼠(りす)かなんぞが木の幹から顔をだしたような表情で殺生丸を見た。道すがらちゃっかり何か採ったものか、片方の袂(たもと)が不自然に重そうだ。
「あのね、さっき岩の下が穴になってるところを見つけたの」
 袂をさし上げて揺すって見せる。
「この茸もそこで採ったんだけど、中はいがいと広いんだよ」
 日頃から食い扶持を自分で調達しているだけのことはある。伊達に野歩きはしていない。殺生丸はいつ戻るやら知れぬ邪見はあてにせず、りんの言う洞穴を仮の宿とすることにした。

 はたして洞穴に入って程なく、叩きつけるような雨が降りはじめた。りんは何度も洞穴の入り口から外を覗いては、あたりを見まわした。
(なにか目印を残しとけば良かったかなぁ)
 まるで白くすら見える激しい雨である。
(邪見さま、難儀してないといいけど)
 しゅんと洞穴の小岩に腰をおろして、りんは雨の飛沫にけむる外を眺めた。背丈の低い邪見のことである、ぬかるみに足を取られてはいないだろうか。
 こんな時りんは飛びだして行って邪見を探したものだが、こういうばあい自分が出て行くとかえって彼らの迷惑になるらしい。邪見を探しに出たあげく迷子になって以来、こんな時のお決まりの台詞は、「おとなしく待っていろ」。彼らと旅をするようになってから、妖怪が人間より数段感覚が鋭いということも、りんは学んでいた。

「邪見さま、大丈夫かなぁ」
 やはり心配なのか、りんは心もとなげに殺生丸のそばに座りなおした。りんは殺生丸になれなれしく触れたりはしない。殺生丸もそうされるのを言外に拒んでいるようでもあったし、りんも殺生丸と一緒にいるだけで充分だった。
 りんにとって殺生丸の傍は、果てもなく広がる荒野にただ一本、悠然と立つ大樹のように心が落ちつく場所だ。今までひとりぼっちで生きてきたりんには、その葉陰がどれほど心強く、どれほど大切に思えただろう。どんなにひどい風雪も、この枝葉の下でなら辛くはない。その枝葉を広げているのがたとえりんのためでなかったとしても、りんはその強くて美しくて真っ直ぐな大樹が好きだった。
 それにね、とりんは思う。
(殺生丸さまはりんのおななし、ちゃんと聞いてくれてるんだ)

 こうしてそばに来ると、りんの匂いとかすかな体温が殺生丸をつつむ。人間などいまいましい存在としか思わないが、不思議とりんにはそうした反吐がでそうな不愉快さを感じなかった。手のかかる、弱い生き物だと辟易することはある。しかし、己を信じきってついて来るこの真っ直ぐな眼差しはどうだ。
(私は幾多の妖怪を、鬼を、そして人間をも手にかけてきた。必要があればこの童もためらいなく爪の餌食にするだろう。その時、こやつはこのような顔をしていられるだろうか?)
 そんなことを思った。殺生丸の思いを知るや知らぬや、己を見上げているりんと目があう。媚びや怖れとは無縁の瞳。その心根のあらわれた真っ直ぐな眼差しの心地良さ。
「りん、私が妖怪だとわかっているか?」
 我知らず口をついてでた。時に、りんは思いもよらぬ言葉を殺生丸から引きだしてしまうらしい。口にしてから、なんとくだらぬ言葉かと憮然としてしまう。りんはきょとんと殺生丸を見上げると、「殺生丸さまはつよくて、きれいで、やさしい、すごい妖怪だよ!」と、うれしそうに答えた。
(愚かな……。やさしいだと? 何も分かってはおらぬ)
 ふん、と鼻を鳴らすと、殺生丸はそっぽを向いてしまった。
(情などというもの、この殺生丸には無用だ)
 しかし、りんの瞳はおもいきり真剣だ。ときに深い色をたたえるりんの瞳。殺生丸はその瞳をおもいうかべながら、ぼんやりと思った。
(しかし、この人間……なぜか不快ではない)
 生温かい水と飛沫の混沌の中、ここだけは明け方の夏霧を見るような清さがみちていた。


 雨がようやくその激しさを減じている。その雨の矢のむこうから、邪見の声がとぎれとぎれに聞こてきた。
「殺生丸様〜、り〜ん!」
 主(あるじ)とりんを探している。それを聞くと、りんは弾かれたように殺生丸を振り仰いだ。
「邪見さまだ!」
 雲の切れ間から陽が射したようだとは、まさにこのこと。光薄き洞穴にその笑顔は眩しすぎて、殺生丸は一瞬目を細めた。
 いつしか驟雨はその激しさを急速に和らげている。 ふたたび光を取りもどしはじめた洞穴の外へ、りんは駆けだしていった。
「ここだよ、邪見さま!」
 りんが駆け去ったあとには、まるでそよ風のように残り香がたゆたっていた。殺生丸が洞穴を出ると、雲の切れ間からは僅かに青空が見てとれた。小さく、だが美しく澄んだ空だった。


< 終 >












2006.07.12 UP
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