【名残り桜】


 ひらひらと桜の花弁が舞い落ちていた。
 のどかに、ただひたすらにのどかに。

 花見、というのではないけれど、殺生丸とりんはふと連れ立って野山に出ることがある。あるときは紅のもみじ、あるときは一面の雪景色、あるときはこんなふうに花の咲く頃。りんにも殺生丸にも野が性に合うらしい。幼い時分旅をしていたりんは勿論のこと、貴公子然とした殺生丸までも放浪が身についたものか、ときに双頭の竜を駆り、山を、空を巡る。今も、そうして春の野に出でて桜を眺めているというわけだ。

 休息にと立ち寄った古びた堂、その軒先にかかる桜の大樹からは音も無く薄紅の小片が落ちている。眠くなるような昼下りである。

 りんは堂の杉戸に凭れる殺生丸の横顔にそっと目をやった。
「……ねぇ、殺生丸さま」
 柔らかく瞼を閉じた殺生丸。いつの間にか寝てしまったらしい。こののどかさに眠りを誘われたのであろうか、呼びかけの声に答える気配もない。りんにだけだ、この大妖怪が心を許して寝顔を見せるのは。
 穏やかな横顔に、りんは小さく微かに言葉を続ける。それは、殆ど無意識の行為だった。
「いつか忘れて下さいね、りんのこと……」
 起こさぬよう触れてしまわぬように、そっと殺生丸の頬へ掌を添わせた。桜が音もなく散っている。

「……くだらん」
 突然りんは手首を掴まれた。はっとして手をひこうとする。
「起きてたの!?」
 やられた!という顔をしてりんは口を尖らせた。
(いつも殺生丸さまのほうが一枚うわてなんだよね……) 
 「ひとりごとですっ」と、手首を掴んだ殺生丸の手をもう一方の手で押さえたりんだが、殺生丸は強い眼差しだ。
「勝手は許さん」
 りんの目を鋭い視線で射る。どうやら冗談では済みそうもない。りんは殺生丸の手に自分の手を重ねたまま、そっと座り直した。

 聞かせるまでもない、心の奥にしまっていた決意だった。口にしたとて詮無き言葉。
「あたし、ずっと殺生丸さまのおそばには居られないでしょ? だから、その時はあたしのこと忘れてほしいなぁって……」
 数十年のち、あたしは在るがままに生き天命のままに消えるだろう。その時は、殺生丸さまはあたしのことは忘れて、前みたいに自由に暮らしてくださればいい。数百年、いや数千年のちも、銀の髪なびかせ誇り高く……。
「だから、ね……?」

 睨むような顔でりんを見ていた殺生丸だが、りんを真っ直ぐ見詰めたまま肩を掴んだ。
「くだらんことを考えるな」
 鋭い爪がりんの肩に食い込む。
「殺生丸さま、その時はりんのこと……」
「黙れ」
「殺生丸さま……」
「黙れ」
 殺生丸は肩を掴んだまま、りんの胸に顔をうずめた。黙れと繰り返す声がくぐもる。


 あたし初めて見た、殺生丸さまが泣いたの…………


 りんは殺生丸の銀の髪を撫でながら、とても困ったというように、けれど柔らかに微笑んだ。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫」
 幼子をあやすようにつぶやく。
 ……大丈夫、大丈夫、ごめんね、ごめんね殺生丸さま。
 見上げれば、音もなく降る花びら。薄紅の舞う光景は、ただひたすらにのどかだった。
 ずっと一緒に居られれば本当はいいなぁって思ってるんだよ、殺生丸さま。どうやったら一緒にいられると思う? ね、いい考えないかなぁ。

 微笑んだまま、りんは白銀の髪を撫で続ける。
 花びらがひらり、二人の傍らに舞い落ちた。


< 終 >












2006.05.18 UP
< back > < サイトの入り口に戻る >