【水鏡】


「こりゃっ、りん! 早う起きんか〜!」
 白い朝の光の中で、邪見が人頭杖を振り回しているのがぼんやり見えた。「春眠暁を覚えず」と言うけれど、どうやら気持ち良く寝過ごしたらしい。「うわっ!」という声と共に、りんは慌てて飛び起きた。傍らの焚き火は、もう火も消えて炭ばかりになっている。
「もう殺生丸様はお発ちになるぞ!」
 そう言って邪見はあたふと行ってしまった。行ったとて、とりたててあるじの支度を手伝うようなことも無いのではあるが、叩き込まれた恐怖心に、こんなときは取りあえず慌ててみる老妖怪である。

「いけない、寝坊しちゃったよ!」
 着物についた草の切れ端やら土やらをばたばたと盛大な音を立てて払うと、懐からいつもの結い紐を取り出した。すっかり古びて元の色など分からぬような代物だが、親兄弟がいたころから使っている大切な品だ。
 りんは大急ぎで髪を掴むと、くるくると器用に一房を作った。昔は母が結っていてくれたものだが、今は自分で結うより他はない。最初は上手く結べず情けなく、その度に寂しくてしょうがなかったが、今ではずいぶん上達した、とりんは思う。

 結った一房をぴょこぴょこ揺らせながら、りんは殺生丸と邪見の後姿に駆け寄った。
(今日はどこへ行くんだろう)
 りんに行き先のことは分からない。どうやら邪見にも分かっていないらしい。以前それで「仲間だね」と軽口を叩いたら、たちまち「あほっ!」という言葉が飛んで来たものである。どうにもこうにもこの殺生丸という妖怪は、一体何を考えているものやら、従者にさえよく分からぬという始末だった。

「殺生丸さま、おはようございます。 邪見さまもおはようございます!」
 殺生丸はこちらを見ようともしない。邪見のほうはといえば、今日はどっちへ行くの?と尋ねかけたりんの言葉を遮って叫んだ。
「ぶはっ、なんじゃそのけったいな格好は!」
 邪見の声に興をそそられたのか、さすがの殺生丸もこちらを見たようだ。いつもは冷たく冴える金色の目が、少し揺らいでいた。邪見は先程の驚きの声から一転、息も出来ぬほど笑っている。大きな眼から笑い涙がきらり光る。りんはわけが分からず顔をなでてみたり袖をひっくり返したりしてみるが、はて、何のことやら。

 邪見のぷるぷると震えて指差す先をみてみれば、どうやら自分の頭にその元凶があるようだ。慌てて触ってみると、どうもその結い方がおかしいらしい。邪見は転げまわって笑っている。この騒がしい従僕が殺生丸に踏みつけられるのも時間の問題だろう。
 殺生丸はと見上げれば、いつもと感じが少し違う。金の眼が少し優しいような。困り果てて「殺生丸さまぁ〜」と上目遣いで見上げれば一言、「川で直して来い」と。それっきりまた背中を向けてしまった。

 りんはぱたぱたと小川に駆け寄ると、水面の静かなところを覗き込んでみた。少し姿は揺れるが、自分の姿が見える。日の光を手で覆って水面に目を凝らしたりんは、朝起きた時よりも大きな声で「うわっ!」と叫んだ。
 どうやら大急ぎで結ったために毛筋の取り方がおかしかったらしい、おでこは丸出しで、結わえた髪はてんで好き勝手な方向へ毛筋を飛び出させている。まるで何里も先から駆けて来た者のようだ。これが仔犬のような笑顔でこちらに走ってくるのだから、吹き出さないほうがおかしいのかも知れない。
「もう、あんなに笑うことないのに〜」
 結い紐を外して、りんはもう一度丁寧に髪を結いなおした。

 りんが戻ると、邪見は半分地面の中にめり込んでいたが、なんとか自力で起き上がると「りん、ゆくぞ〜」と千鳥足で手招いた。殺生丸は少しだけこちらを振り返り、それから銀の髪をふわりとなびかせて前に向き直った。少しだけその口元が緩んでいたのは、この少女のなせるわざ。不可抗力、というやつである。水鏡で直したおかげか、今度のりんはいつものりんだった。
(殺生丸さま、川でなおしてこいって教えてくれた)
 りんが殺生丸の背中に「へちゃっ」と笑いかけたが、当の妖怪は知らん顔。かの大妖怪とその下僕とりんと妖獣は、朝の光に中をどこへ行くのやら、ゆっくりと旅立っていった。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 あれから幾年経ったろう。

 小川のせせらぎが小さく響く空の上、雲雀が高く囀っている。春を謳うように、讃えるように。何度目かの春も、穏やかに暮れていった。
 りんは水際に膝をつくと、結い紐を外してその髪を手で梳いた。幼い頃よりずいぶん長く、艶やかになった。邪見に言わせれば「まあまあ、なかなかのもんじゃ」、とのこと。春の明るい光に照らされて、りんの髪は金茶めいた輝きを放った。
 あれから数年経ったけれど、こうやって小さく髪を結うのはもう習慣のようになっている。一房取って、結い紐を巻く。そっと体を傾けた。水鏡に映った華奢な姿は、器用に髪を結わえてゆく。


 と、だしぬけにりんは小さく声をあげた。後から抱きすくめられて、頬寄せられて。
 背後からさらさらと銀の髪がこぼれた。
「殺生丸さま……!」
 慌てて均衡を失ったりんの体を殺生丸の隻腕がしっかりと抱いていた。
「落ちるなよ」
 耳元で囁かれて、りんは赤面した。水鏡にはりんと殺生丸。やがて小さなさざ波が二人の姿をそっと隠した。
 春爛漫の頃である。


< 終 >












2006.03.17 UP
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