【春待ちて】


 闇の中だ。密度の高い模糊とした闇。その闇の中に、人影が二つある。常人には見えずとも、彼の目にはわかる。一人は背が高く黒い髪。肩幅があるから青年だろうか。もう一人はよく見知った少女だ。彼らに近づきたくとも、なぜか殺生丸は動く事が出来ない。そうする間にも、少女と青年は睦まじげに手を取り合った。
(りん……)
 殺生丸は、たまらずその少女に呼びかけた。
(りん……!)
 二つの姿が一つに溶ける。
(りん!)
 もう一度叫ぶ。聞こえていないのだろうか、少女は振り返りもしない。青年の首にするすると腕を回して口づけをした。
(奴め、老巫女の村の男か)
 いや、そんな事よりも。
(……りん、何をしている!)
 喉が引き攣るようだ。触れれば血の出るような視線で、殺生丸は二人を凝視する。りんはその時ようやく気づいたものか、名残惜しそうに男から唇を離した。殺生丸の目線を受け止める。そして濡れた唇をなまめかしく光らせて、こちらに微笑んだのだった。


 褥に半身を起こした殺生丸は、額に浮かんだ汗を感じて、それが夢であった事を思い返した。
(……口づけだと?)
 歯軋りしたいような焦燥感に襲われて、殺生丸は額の髪をかき上げる。気付けば、爪が食い込むほど拳を握り締めていたらしい。掌に薄く血が滲んでいた。自嘲が浮かぶ。
(……くだらぬ。あれが人間の男と共に生きて何の問題がある。誰と生きどう死ぬか、そのような事はあれの好きなようにすればよいのだ)
 だが、彼の胸の動悸はどうした事か。その胸に渦巻く青白い焔。じりじりと身を焼かれるような、焦り。
 それを振り払うように褥を立って、殺生丸は蔀を開けた。まだ夜明け前のひんやりとした空気は、早くも早春の柔らかな香りをほの薫らせていた。長い冬を終え、全ての生命が躍動している。いつしか梅花の季節は過ぎ、桜の蕾が木々を暗赤色から薄紅色に包もうとする季節になった。いつ桜が咲くだの花見の準備をしようだの、屋敷では侍女どものはしゃいだ声が、ときおり殺生丸の耳にも届く。昼ともなれば、うらうらと陽射しが暖かい。空気までも浮き立つような春先である。

 あるじが目覚めたのを悟って、邪見が居室を訪れた。平伏して殺生丸を見上げたこの老妖怪は、だが彼の横顔を見て、そのまま黙って退出してしまった。
(このような時は、そっとして差し上げたがよい)
 冷たい横顔にはおくびにも出さぬが、いま殺生丸は激情に支配されていた。いっそりんがいなければ、これほど翻弄される事はなかったであろう感情である。昨夜の事だ、夕餉にりんに会ったとき彼女には下界の臭いが纏いついていた、それが夢になって現れたのであろう。
 りんを失うのが怖い。りんが他の男の物になるのが怖い。
 しかし、そうなる事はりんのためにはいいのかも知れなかった。りんは人間だ。ここに置いては枯れてしまうやも知れぬ花。彼女の翼を縛る事は、殺生丸の矜持が許さなかった。
(好きにすればよい……)
 殺生丸は目を閉じた。


「りん、変わりは無いか?」
 朝餉を終えたりんの前に、邪見はちんまりと座った。よく食べよく動きよく寝るのは相変わらずのりんだが、さすがに年頃になったとあってずいぶん大人びてきたと言っても良いだろう。邪見からすれば、大根を生のままで齧っていた頃のりんが懐かしくもある。
「邪見さま、どうかしたの?」
 腕組みをした邪見に、りんは促した。何か聞きにくいことだろうか。
「そのなぁ、殺生丸様のご機嫌が斜めなんじゃ。何か心当たりはないかのう」
 邪見は、りんが殺生丸の不機嫌の原因だと直感していた。元々ああ見えて気性が激しいというか、難しい所のある殺生丸である。邪見も今までずいぶん冷汗をかいたものだが、今朝の彼の様子は少し違う。ああいう苛つき方をするときは、大抵りんが絡んでいる事に邪見は気が付いていたのだ。
 りんは、少し考えるふうをした。政や隣国の事は分らない。邪見が聞いてくるという事は、自分に関する事なのだろう。そういえば……。
「あたし、きのう楓さまの村に降りたの」
 邪見は内心膝を打った。
(それか。だがそんな事に焼餅を焼いていなさるのか……?)
「おまえ、最近よくあの村に行っていたな。昨日もか?」
 りんは頷いた。
「村の人にね、草鞋の作り方を教えてもらってるんだ。小さい時におっとうに少し習ったんだけど、忘れちゃったの。もうすぐ一人で全部仕上げられるようになるよ。自分の事ぐらい、少しは自分で面倒見れるんだから」
 りんは笑った。


* * * * * * * * * * * * * * * * * *



 春先の風は少し冷たいけれど、こうして陽射しを浴びながら風に吹かれるのは心地よい。陽を浴びた大地からは、いかにも春めいた青い薫りが立ち昇っている。りんは桜の大樹の下にある岩に座って、頭上に広がる枝々を仰のいて見上げた。花が咲くにはもうしばらくかかりそうだ。けれど、蕾は日毎に艶やかさを増している。咲いたらどんなにか綺麗だろう。幹に凭れて目を閉じれば桜の息吹が聞こえるようで、りんはその鼓動を聞きながらうとうととまどろみの中におちていく。
(桜が咲いたら殺生丸さまと山の桜を見に行けるといいな……)
 りんの意識は、山桜の如く薄紅がかった白いもやに柔らかく溶けてゆく。
(草鞋作れるようになったから、もうどんな山道でも大丈夫だよ……)

 そんなりんの耳に、枯れ枝と草を踏む音がかすかに聞こえた。規則正しいその音にゆっくりと目を開ければ、そこには殺生丸。透明な昼下がりの陽光は、その姿を清冽に照らし出した。銀の髪が春風に揺れる。それはまどろんでいたりんの瞳に、夢のように映った。
(いつだって忘れないでいてくれるんだね。 どこにいても、殺生丸さまは必ずりんを見つけてくれる)
 ぼんやりと、そんな事を思った。殺生丸はそんなりんのそばまで来てたたずむと、立ったまま桜の幹に隻腕を預けた。りんに殺生丸の影が重なる。銀糸の髪が肩からこぼれてりんの頬をかすめると、りんはくすぐったそうに仰向いて少し微笑った。
「ここ、暖かいんですよ」

 まるで無防備な笑顔だった。
(これは己のりんだ。 この殺生丸の……)
 殺生丸は何も言わずに、りんの唇を己の唇で塞いだ。りんも、そして風も一瞬動きを止めたようだった。
(どうしたんだろ…殺生丸さま……口づけなんて……)
 だが、一瞬見開かれたりんの瞳は再び瞼に隠されてゆく。
(殺生丸さま……、りん何だか眠くて…眠くて……)
 再びまどろみ始めたりんの唇に、殺生丸はもういちど口づけた。
「りん」
 りんはもう起きなかったけれど、まるで微笑んでいるようだった。

 もう例の村の事も、妖怪と人間の事も、今は考えたくなかった。己とりんの間を隔てるどんなものも、忘れたかった。
(この野の花を手放す事が出来ぬ己を愚かと笑え。人間の小娘に翻弄される己を笑え。……りんは誰にも渡さない)

 春風が、いっとき強く吹いて桜の梢を鳴らした。それは殺生丸の揺れる想いそのままに吹き抜けて、少し離れた木立をざわざわと騒がせていた。


< 終 >












2006.01.22 UP
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