【桜桃】
降っては止み、降っては止み、このところ晴れやかな天気になかなかお目にかかる事がない。梅雨なぞというのは難儀なもんじゃと邪見はこぼすが、その主はいっこうに頓着する様子も無く、連れのりんにいたっては、霧のように降る雨に、あるいは叩くような大粒の雨に毎度感嘆の声をあげる。
こう降るようではわしがりんの食い物を都合して来ずばなるまいな、と邪見が見上げた空に一筋の晴れ間が広がった。日の光は、雲の間から飽和状態の雨粒を落すかわりに、光の紗を下界に下ろす。刷毛で刷いたような一筋の晴れ間はあっという間に広がり、透明な青が空に塗り込められた。突然の陽射しは、地にあるすべからくの水滴を黄金色に反射させて、りんは目を輝かせる。大木の木陰から走り出ようとしたが、低く通る声に足をとめた。
「……りん、ゆくぞ」
何が何だか分からないが、とにかく双頭竜の背に乗せられて、雨後の鮮やかに澄んだ空を駆ける。雨のせいで気付かなかったが、やや日は西へ傾こうとしていた。「何処へゆくの?」とは、りんは聞かない。殺生丸がそばにいる、それだけで良かった。風をはらんで殺生丸の髪がさらさらとりんの頬をかすめる。くすぐったくて、そして心地よかった。
やがて彼らは、まばらな木々が梢を伸ばす、なだらかな山腹に降り立った。首をあおのかせてくるくると木々をみていたりんは、ある事に気付いて歓声をあげた。
「さくらんぼだ!」
りんが桜桃を口にする事は、あまり無い。山中の実桜はそれほど豊富に実を付けるわけではないのだ。それ以上に、りんはさくらんぼと遠い。実のなっている所まで背が届かないから。空の高みにある赤いお星様から「ここまでおいで」と、からかわれているようで、りんは「ぅぅぅ〜」と小さくうなる。それこそ星のように沢山の実がなっているのに、なんと自分の小さいことか。ぴょこぴょこ飛び跳ねても届こうはずも無く、大きな幹を揺らしてみても、りんの力ではびくともしなかった。
さすがのりんも溜息をつきそうになった時だ。そばの空気がふわりと揺れた。見上げれば、どんな木立より優美な銀髪の妖怪。りんの桜桃に対する挑戦を見かねたものか、無表情で梢に隻腕を伸ばす。りんには少しも手に届かなかった赤い果実に、難なく手が届いた。
(殺生丸さま、りんが本当に困ったなあって思うと、いつも助けに来てくれるんだね)
他者からすれば到底信じがたい事であろうけれど、りんにはそんな気がするのだ。もしもあえない最期を迎える事があっても、りんはその瞬間まで信じ続けるだろう。
「殺生丸さま、ありがとう!」と見上げたけれど、殺生丸はといえば桜桃の実をつまんだまま神妙な顔をしている。(殺生丸さまもさくらんぼ食べたいのかな)と思ったけれど、彼がそんなもの食べるとは思えない。今度は殺生丸を見上げて困っていたりんだが、口元に運ばれたさくらんぼを見てさらに困惑する事になった。
(ええと、これをりんが食べていいっていうことなのかな)
殺生丸の美しい指先につままれた、赤いつややかな果実。甘い果汁を、雨に洗われていっそう薄く透けた果皮が包んでいる。毒の爪が恐ろしいなどとは、りんはつゆ思わない。口元に差し出されたさくらんぼは見るからに瑞々しくて、思わず唇を寄せるた。
りんの唇は果実と殺生丸の指先を、ゆっくりとかすめる。赤い果実はようやくりんのものになった。
……なるはずだった。
ならなかったのは、殺生丸の指がびくりと動いて実が落ちてしまったからだった。果実を取り落としたのは、動揺だろうか。桜桃より瑞々しく、桜桃よりずっとずっと柔らかな唇。金色の目が、真っ直ぐりんを見ていた。
りんはあわあわとさくらんぼを拾って、口に放り込む。甘酸っぱい味覚が広がり、思わずへちゃりと笑ってしまう。
(ほんとうに甘いや、さくらんぼ。そうだ、邪見さまのぶんも持って帰れないかな)
もうその時には殺生丸はあらぬかたを向いて、先程のいつもと違う殺生丸はいなかった。
(なんだか、びっくりしちゃたよ。もしかして、邪見さまにもあんなふうに食べさせてあげるのかな、殺生丸さま)
そんな想像をすると可笑しくて可笑しくて、りんはくすくす笑ってしまう。殺生丸は背を向けており、どんな表情をしているのか、りんにはわからずじまいだった。
もう陽はずいぶん落ちて、赤味がかった光が林の奥にまで差し込んでいる。あたりには、既に夕暮れの色が忍び寄っていた。そろそろ帰らねば、あの忠実な老妖怪が心配するだろう。双頭竜は朱の光に満ちた空を、滑るように飛び立っていった。
< 終 >
2004.06.16 UP
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