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夢のあとに -2-

暗い海

 

 目の前には夜の海が広がっている。月の明りだけが波を切れ切れに照らし、わたしは砂浜に置かれた一艘の小舟のそばにいた。

 妻がわたしのそばに立っている。白い服を着て、大きなバッグを下げて立っている。かの女はこれから旅立つのだった。アメリカ東海岸の大都市で、男に会いに行くのだ。

 わたしにもかの女にも、子供はいなかった。だから、かの女がそうしたいと言ったとき、わたしには何も拒む理由はなかったのだった。それだけではない。わたしはかの女をこれからその舟に乗せ、わたしが漕いでそこまで連れて行く約束をしたのだ。そこへかの女を送り届けることは、わたしの漕ぐ舟であればたやすいことだった。だが、わたしの心中には葛藤があった。

 嫉妬である。なにゆえかの女がわたしに舟を出させなければならないのか。自らの力で行けばいいのに…。そう思うのだったが、わたしは物分りのいい顔をして、にこにこと舟を出す。

 

 

 オールがキイキイと音を立て、舟の下では波がくすぐったい笑い声を上げた。わたしはゆっくりと漕いだ。

「あっちに行ったら、言葉が通じないのだから気をつけてね。」

 わたしは言葉の問題にかこつけて、かの女の翻意を促そうとした。明らかなおためごかしだった。

「大丈夫よ、Tさんが待っているから。」

 妻は明るく答えた。そうだった。アメリカでかの女は一人ではないのだ。わたしだけが取り残されて独りになるのだ。わたしは行く手の黒い陸地を見つめた。陸地の向こうの空が少し明るくなっているのが見えた。あちらは朝なのだ。そしてわたしはかの女を降ろすと、また夜の世界へと帰らなければならない。

 独りであるということは、夜の闇の中にいることに他ならない。なにが夢で、なにがうつつなのかわからないのが孤独というものなのだ。わたしが感じ、考えることは、わたし以外の誰も知ることがないからだ。それが夢でなくてなんだろう。幻想でなくてなんだろう。まさにそういうことだった。

 わたしはかの女がかの地で不幸になることを願った。よこしまな願望を隠すかのように、力をこめて漕いだ。かの女は無言だった。わたしも言葉をなくしていた。舟の上に白い月が歯をむき出して笑っていた。

 

 *

 

 波の向こうに、大きな船が航行しているのが見えた。船は満艦飾で、明るいダンスミュージックが風に乗って聞こえてきた。映画のようだった。

「あれはタイタニックだね。ほら、氷山があそこに…。あの船はいまから沈むのだね。」

 わたしが妻の注意を促そうとして語りかけたとき、舟の上にはわたしが独りであることを見出した。…かの女はどこに行ったのだろう。

 わたしはかの船の上に妻の姿を見る。かの女は映画さながらに舳先に立ち、両手を広げている。

「そんなところに行ってはダメだ。その船はもうすぐ沈むのだよ。」

 わたしは叫び、そしてかの女に不幸あれかしと願った自らを呪った。わたしの邪悪な願いがかの女をそこにやったのだと思った。

 わたしは必死に漕いだ。あの船は今しも氷山に衝突しようとしていたが、船の上の人は誰も気がついていないようだった。

 

 

「では、ちゃんと連れて行ってくれるのね。」

 かの女がわたしの耳元でささやいた。わたしは頷いた。妻はもとのとおりわたしの舟に座っていた。タイタニックの姿も、氷山も、見えなくなっていた。

 わたしは妻を朝の世界に導くために漕いだ。送り届けた後に帰らねばならない夜の闇のために漕いだ。陸地はもうすぐだ。

 妻が立ち上がった。港で待つ男を認めて手を振った。

 

 

 それにしても暗い海だ…。

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