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夢のあとに -3-

夜のキッチン

 

 ある朝のことだった。別れた妻に連れられて、子供たちがそろってわたしの家を訪ねてきた。

 不思議なことにみな20年程前の子供の姿だった。妻もまた、まだわたしとむつまじかったころの若々しい容姿であった。いや、「妻」と言う呼び方はもうこの際正しくないだろう、すでに彼女と離婚して2年が経過しようとしているのだから。わたしは20年も前の彼らが、今の状況の中であらわれたことに少しも奇異の念を抱かなかった。

「離婚したとはいえ、あなたはこの子たちの父親ですからね。今日は思い切って連れて来たんですよ。」

 戸口で彼女は子供たちをわたしに引き渡しながら言った。

「ありがとう。あなたはやっぱり素晴らしい人だね。こんなわたしのことをないがしろにしてもいいはずなのに、こうして考えてくれている。」

 彼女は少し口をゆがめて笑った。緊張したとき、悲しいときなど、彼女が良く見せる表情だった。こういう表情を見せるとき、彼女の中には今にも張り裂けそうな感情が押さえつけられているのだ。彼女にわたしへの屈託があるであろうことはそれで見て取れた。なんと能天気なことを言ったのだろう、とわたしは後悔した。しかし、わたしはそれでも彼女の配慮とやさしさに感謝していた。たとえ彼女がそのような感情からそれをしたのではなかったとしても。

 

 彼女が帰った後、子供たちはわたしのパソコンで遊び始めた。

「おとうさん、まあじゃんで遊んでいい?」声変わりしていない甲高い声で長男が言った。

「ああ、いいよ。でも、おまえたち麻雀なんて知ってるのかい。」

「知ってるよぉ。」長女はいつものお茶目そうな表情である。

次男が二人に向かって、甘えるように言った。

「ぼくは知らないもん。」

「じゃ、○○ごっこをしよう。」いつものようにまとめ役を買って出た長女の発案で、3人はパソコンから離れ、他の遊びをはじめた。

 3人が遊んでいるのを、わたしは目を細めてみていた。あのころはこうした光景を毎日見ていたのだった。これがひとつの幸福の姿だ、と思った。幸せは、この光景の中に、子供たちの楽しそうな声の中に、そしてそれを見聞きしているわたしの中にいま、はっきりとあった。それは確かに、あのころにはあったものだった。だがわたしは当時、それを幸せのはっきりした形として認識できていなかった。今ならわかる。まさにこれこそが幸福だったのだ。

 今わたしが幸福でないなどとは決して思っていない。だが、いまのわたしが日々の生活の中で感じているそれとは別の、いまさら取り返しのつかない幸せもまた、あったのだ。全ての幸福を手に入れることなど、所詮できない。それもわかっているのだが…。

 わたしは思わず涙がこぼれそうになった。あのころにはもう戻れはしない。あのころの貴重さを今になって知らせるために、この子たちがやってきたのかもしれない。決して取り戻せないものがあることを見せるために…。

 

 子供たちは遊び疲れてわたしのベッドに川の字で寝ている。あのころそうであったように、わたしも一緒に横になってまどろんでいる。しかし、ふいにわたしは子供たちに食事を用意しなければならないことに気づく。それもまたいつものことだったのだ。

 なにを作ろう。3人はわたしの作る、さほどたいしたものでもない料理を、いつも「おいしいね。」と言って食べてくれたものだった。どんなにわたしがその言葉で満足したことか。作っている最中も、子供のためと思えば、とても楽しかった。そう、その楽しさと子供たちのわたしへの全幅の信頼こそが、子供たちへの料理の味付けになっていたに違いない。

 わたしは子供たちの目を覚まさないように、そっとベッドから起き上がる。あたりは薄暗い。電気を点けると子供が起きるかもしれないことを怖れ、暗いままキッチンへと入る。そっとキッチンの明りをつける。その明るさに目が一瞬くらむ。

 …そしてわたしは気がつく。ひょっとしていまのは夢ではなかったのか。子供たちがわたしのところへ来るなど、それも別れた妻に連れられてくるなど、ありえないことだ。あんなに彼女はわたしのことを憎んでいたではなかったか。子どもたちも音信普通になってずいぶんになるではないか…。

 しかしあまりにリアルであったので、にわかにはそれが現実ではないことをわたしは承認しがたい。

 わたしは流し灯のみが点いた薄暗い深夜のキッチンに立っている自らを見出す。思い返したように寝室に走り、今まで自らが横たわっていたベッドを見る。あたりまえのように、そこには子供たちはいない。ただ、わたしが夢の続きを引きずったまま起き上がった際に、だらしなくめくれた布団があるだけだ。わたしは子供たちが寝ていたあたりの布団を触ってみる。そこは冷え冷えとして、なにもない。誰かいた形跡もない。空を切るようなもどかしさの中で、わたしは何度も布団をなでさする。

 わたしはキッチンに戻り、まな板を出して包丁を握り、夢の続きを追おうとする。さあ、なにを作ろう。なにがいいかな…。わたしは子供たちに向かって尋ねようとする。そして、声を出したとたんに全てが消え去ることを悟る。子供たちが成人していることも、わたしから遠く離れていることも、そして、別れた妻が決してここに訪ねることがないことも、もうすでに現実なのだ。

 「あたりまえだよな。」わたしはつぶやく。待っているだけでは何も起こらない。そしてわたしはこれからもただ待つだけで生きていくに違いない。ずっとこのままで…。

 まな板の上にわたしの涙が落ちる。わたしは包丁を置く。耳にはまだ子供たちの声が残っている。

 いまだ夜は明けない。

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