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「そうねえ。あなたの言うこと、確かに可能だわよ?」
 男は言った。顎の先にほっそりとした指先を当てて、考えるような仕草で。プラチナ色の長髪。海の底を思わせる深い色合いの碧眼。それにあわせたように身にまとっている衣服も白と青がベースになっている。ほっそりとした面は端正ではあるが、間違いなく男の骨格だった。とんとん、と青色のマニキュアを施した指先で顎をたたいて、階段の踊り場で男は視線だけ少女に向けた。世界で勇者と呼ばれ始めた、その少女に。
「ここにあるのは、確かに世界の時間を定める時計。もしも時計の針を逆回しすれば、望む過去まで時間を戻すことができる」
 大きな屋敷の入り口にあるホール、そこが少女の居場所だ。男はそれより若干高い位置にいる。正面にある大階段、途中から左右に分かれ上へ伸びる、ちょうど分かれたところにある踊り場に、男は立っていた。入り口から見れば正面奥、男の背後に人の背丈の倍はある、大きな振り子時計がゆっくりと時を刻んでいる。
「それじゃあ」
 すがりつくように声を大きくする少女に、男は少し悩んだそぶりをみせると、ゆっくりとかぶりを振った。
「だめよう。誰かの不幸を埋めるために時間を戻せば、誰かの幸せが奪われてしまうもの。時は一定に流れるのが定め。もどることも、とどまることも許されない。そして定めに逆らうことのないように、番人がいるのだから」
 言って、男は手を下ろすと、硬質の足音を小さく響かせ階段を下り始めた。時計の振り子の低い音と、同じリズムで響く靴音。
「それにねえ、数分ならともかく数ヶ月? 数年? それだけの時間を巻き戻すなんて、ヤぁよ。腕が疲れるもの」
 顔の前でくるりと指先を反時計回りに回してみせる。
 少女は黙り込んでしまった。男が目の前に降り立ったときでさえ顔を伏せてそちらを見もしなかった。自分の願いが、相手の言うように「誰かの幸せを奪う」可能性を秘めていることを、わかってしまったのだろう。幸せを奪われた人間の、それでも優しく、傲慢になりきれない心で。
 ただ、納得はしていまい。握りしめた拳が震えているのを、男は見逃さなかった。
「ふつうに探しては見つけられないはずのこのお屋敷を見つけたんだもの。それだけでもあなたがどれくらいその人を大切に思っていたのか知ることができる。その人を失った悲しみも、立ち直るためにどれだけの時間を費やしたのかも。でもね」
 青いマニキュアを施した指がすい、と伸びて少女の顎へと触れた。上向けられる少女の顔は多少驚きを含んでいたが、悔しさのせいか唇は引き結ばれ、目にいっぱい涙がたまっている。
「時間を戻すことはあきらめなさい。そんなことしたって、みんなが幸せになんてなれっこないわ。みんなが幸せになれないんじゃあ、繰り返すだけだもの」
 ね、と。男はいたわるように深く笑う。少女の涙の浮かんだ瞳はいつまでも潤んだままだったが、決して涙がこぼれることは無かった。にらみつけるように見開かれた目は、男の表情をとらえているだろうか。
「時間を戻そうと思った、ここまでたどり着いた、あなたの心は何も間違ってない。あなたの想いも否定しない。だからね、アタシを憎んでいいのよ。時を戻さないアタシを、声が枯れるまでののしっていい、殺したいほど憎んでいいんだから」
 顎に添えていた手を離すと、その手で少女の頭をなでてやる。亜麻色の髪はつややかで、なでる指に触れられて抵抗無くたわんでゆく。少女は唇をかみしめて必死に涙をこらえているようだったが、「はい」と答えたと同時に両の目から涙がこぼれ落ちた。
「思い出すのもつらいでしょう。でも、忘れないであげてね。時が流れても」
 泣き出しても、少女は顔を伏せたりしなかった。ただ次に「はい」と答えた声は、しゃくり上げる声に紛れて小さく、そしてふるえていた。


「彼女、どうした?」
 足音も無く大階段を下りてくる青年が訪ねた。黒の神官衣をまとった、黒髪の青年。ちらりと、数刻前に少女がいたホールへと視線を落とす。
「あらあ、ディベルス。彼女がそんなに心配?」
 時計の前にしゃがみ込んでいた男は、黒衣の青年を見つけてうれしそうに腰を上げると、多少のからかいを含んだ声を投げかけた。
「それともアタシの演技力が心配? 心外ねえ。これでも演技派女優で通ってるんだから」
 男は軽く唇をとがらせて片手を腰に、片手を胸に当て、心外を表現してみせるが、ディベルスと呼ばれた青年の気には召さなかったようだ。
「何が演技派女優だ、どこもあっていないじゃないか」
 足音の無いまま踊り場に降り立つと、男の隣に並んで時計を見上げる。世界時計。そのままの名前だな、と内心苦笑とともにつぶやく。
「眠ってるわ。アタシの部屋を使ってる」
 指先を背後で組み合わせ、男は意味ありげに笑って、隣の青年を見下ろした。
「惚れてるの?」
 男の言葉にディベルスはじろりと視線を向けた。そんなことを言われてあわてるほど、うぶではない。
「いやなことを言うな、相変わらず」
「ヤぁなことってなによお。かわいいヤキモチじゃない」
「おまえが言ってかわいいことがあるか」
「かわいいじゃないっ アタシのどこがかわいくないって言うの」
 まるで少女のような仕草で唇をとがらせて見せる男にディベルスは大げさに眉根を寄せていやそうな顔をする。それでさらに男はほおをふくらませたりしたが。
「オウビリアス」
「なによう」
 多少の不満を消して名を呼ぶと、男の方はまだ不満が続いていたらしい。少しふてくされたような声を出してくる。
「礼を言う。ありがとう」
 その言葉にすぐに声は返ってこなかった。ディベルスが隣を見上げると、オウビリアスはきょとんとした表情丸出しで青年を見下ろしていた。すぐににんまりと笑ってディベルスの頬を包むように手を伸ばす。
「なによう。お礼なら言葉じゃなくてチューでしてっていてるじゃない」
「それはお断りだっ」
「言葉じゃお礼とは認められないわ」
「それなら礼は取り下げる」
「やーん。ほっぺでもいいからあ。ね?」
「断じて却下だ」
 顔を逃さぬよう挟む手を払いのけることはせずに、それでも己の金色の双眸にありったけの嫌悪を浮かべて男をにらみつける。いっこうに効果は上がらないようだが。
「もーうー いいわよ。どうせあなたに頼まれなくたって、時間は戻さなかったもの」
 ディベルスの両頬を解放して、オウビリアスは唇をとがらせた。時計の方を向いてしまった青年の顔をのぞき込むように、上半身を折る。
「仮にあなたに頼まれたとしても? 時間を戻すことはなかっただろうし。結局このお屋敷は、訪れる者に絶望を与えるだけの場所なのよね」
 姿勢を正すと小さく息を吐く。
 隣の青年と同じように時計を見上げてみる。時計を戻すことはかなわない。いくら時計の番人が望んでも。時計は止まることが無い。たとえ番人がねじを巻くことをさぼっても。
 番人とは、ただ時計を見守るだけの存在であり、時計の意志を代弁するだけの、通訳だ。
「確かに、時がもどらないことは幸せを取り上げられたものに、さらなる絶望を与えるかもしれない」
 柄にもなく落ち込んだようにも見える男を、慰めるつもりもなかっただろう。が、ディベルスは誰に言うつもりもなかった言葉を口にしていた。向けたとすれば、目の前の世界時計にだったかもしれない。独り言のつもりで、しかし明確な意志を持ってつぶやく。
「しれないが、戻された時間で、必ず同じ過去をやり直せるとは限らない。生きていく者は繰り返すものだし、同じ過去がまた巡ってくるとは限らないのだから」
 また、同じことを繰り返し、同じ苦しみを味わうかもしれない。それとも同じ幸せには巡り会えないかもしれない。もどってやり直した時間が、必ず幸せになれるとは言い切れないのだ。ならば、幸せな過去があった今を捨てて、やり直したいと思うのは愚かな者のすることではないだろうか。
「ディベルス」
「オウビリアス」
 相手の声をかき消すタイミングで強く名前を呼んで、言葉を遮る。青年は、まさかここまで伝える気は無かっただろう。だが、言葉は止まらなかった。ここまで言葉を紡いで、自分の心を誰かに伝えずにいることはできなかった。
「俺も、できるならばあのころに戻りたいと思うよ。先生がいて、彼女がいて、使命のことなんか気にする必要もなくて、あのころに」
 世界時計は変わらず時を刻み続けている。こうして言葉を紡いでいる今も、選べる未来を確定した過去へと押し流している。
「あなたも、アタシを憎む?」
 青年の横顔に目を細めて、オウビリアスは口を開いた。少しおどけたような口調は、彼独特の優しさ故か少し柔らかく、深く絶望の色を宿していた。
「いや」
 しばらくの静寂ののち、ディベルスは口を開いた。
「憎むならば、力の無かった自分を」
「アタシのこと、憎んでもくれないのね」
 世界時計を見続ける青年を、そっと抱き寄せてオウビリアスは言う。いっそ自分を憎んでくれたなら、この青年にとってどれほど心の安寧がはかれるか。どれほど自分の心が満たされるか。その言葉を、彼に向けたりはしなかったが。
「苦しい、はなせ」
 青年は決して抵抗することなく、世界時計を見続けたまま、自分を抱き寄せる腕をそっとたたいた。

――1.時計 




目次 2.荒れた大地


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