アイヲ囁ク

冷蔵庫から麦茶を取り出していると、アキが私を呼んだ。
「なんかね、下からピンクい会話が聞こえる」
「マジ?イイとかイヤとかダメとか?」
「ううん。好き好き大好きって」
「なんじゃそりゃ」
流しの下の棚に頭を突っ込んだアキが(腐りかけたにんじんを発掘していたらしい)そんなことを言い出したのは野菜が容易に腐りだす六月中旬だった。
私もアキの真似をして狭く暗いそこに頭を入れてみる。二人並ぶとほとんど隙間が無く私たちは密着する。

すき
だいすき
あなたがすき

「ね、聞こえるでっ、むっ!」
自慢気に言いかけた馬鹿の口を慌てて手で押さえ、一緒に外へ出る。
「はっ、はー。何すんだよっ」
「静かにしろっ」
唇の前で指を一本立ててみせる。
「なんで?」
怒った表情のままアキは心持ち声を抑えて尋ねる。
「あっちの声が聞こえるってことはこっちの声も聞こえんでしょうが馬鹿!」
私も声を潜めたまま答える。ついでに麦茶を押し付ける。
「ああ、なるほど」

自分の部屋なのにこそこそと台所を出て畳敷きの八畳に移る。
ちなみに台所、八畳、バス・トイレで部屋の全部だ。
ふすまを閉めてしまうと、机の上に汗をかいた麦茶の容器を乗せて、アキはふーっと鼻から息を出した。
「ああ、なんかもう、あ、コップ忘れた」
「あたし取ってくるよ」
静かにふすまを開けて、流しに近づき水切りかごの中に伏せたコップを二つ手に取る。
緊張する。

部屋に戻るとアキは畳の上に大の字になって天井をにらみつけている。
「お茶飲まないの?」
「飲むよー」
首だけこちらに向けてどうでも良さげに答える。
「何やってんのかなー。下の人」
語尾を延ばして、歌でも歌うように。
「さあ」
私はそっけなく答えるが、それでもアキは食い下がる。
「今まで台所で下の声聞こえたことあったっけ?」
「さあ、覚えてない。コップここ置いとくよ?」
麦茶を注いだコップをテーブルの上に置く。
アキは不満そうに手を伸ばして見せる。
「だめだよ。そのかっこで飲んだらこぼすでしょーが」
「えー」
「起きりゃあいいじゃん」
もそもそと起き上がるとまた同じ事を聞いてくる。
「で、何やってると思う?」
「どうでもいいよ」
「嘘だ!絶対気になるって。気になんないの?流しの下だよ?普通そんなとこで好きとか言う?」
気になるかって?当たり前だ。気にならない訳があるかボケ!
「玉ねぎ相手に愛の告白、とか」
尻すぼみに私がそう言うと、ああ、とうなずいたアキは暗い声で途切れ途切れにこう答えた。
「……流しの下に、死体、とか?」
流しの下に死体。
流しの下で腐ったにんじん。
「……それ言うなら冷蔵庫でしょ普通。いや、冷凍か」
「うん。だけど、さあ」
私たちは黙って麦茶を飲む。
この部屋は日当たりが悪い。けれど気温はやっぱり上がるから窓から入ってくる風が気持ちいい。
今年の夏は風鈴でも吊るそうか。
下の人について知っていることは女の人だということ、後は声。少し高めの声。
それだけ。
彼女は時々深夜、長い間電話をする。あるいはどこかからかかってくるのかもしれない。だって彼女はずっと相槌を打っているだけだから。
『うん、うんうん、うん。うんうんうん。うん。うん、うんうん、うん』
『うん』ばっかり。私たちは良くその声を布団の中で聞く。
そうだ。下の階の声が聞こえることぐらい別に珍しくないのだ。
「女優だ女優!」
突然、アキが明るい声を張り上げる。
「女優?」
「うん。実は売れてない女優なのかコアなファンがついて一部では売れっ子なのか女優を目指す学生なのか自分は大女優だと思い込んでる普通の人なのか知らないけど、演技の練習してんだよ!」
最後のはやばいと思う。何より、それは普通の人とは言わない。
「わざわざ流しの下で?」
「ほら、風呂の中で歌うと声が響くとかあるじゃん。そんな感じで」
いや、それ意味分かんないから。言いたいことはなんとなく分かるような気もしないでもないが……やっぱり分からない。
「そんなってどんな感じだよ。ああっもうっ」

あ。
そのとき私は気づいてしまった。
「それ、違うわ。アキ、違う」
「何?」
「流しの下じゃないよ」
だって、それはありえない。
ここは二階で、つまり、下は一回の天井だ。
このアパートの台所は流しの上下に収納スペースがある。
天井作り付けの棚と、真ん中を配水管が通る流しの下の棚。

人にもよるだろうけど。
私にとって。
踏み台に上り、高い位置の棚の中に頭を入れて愛を囁く女性の姿。
その光景は、さっきまで想像していた『床に座り込んで流しの下の暗闇の中で喋る女』よりもずっと、ずっと。
だって、それはつまり、上に向かって。
上?仕切りもあって狭い棚の中に、その、告白の相手となる何かが?
ここ?それとも天井?天井裏?

「もう止めようよ。下の人なんて関係ないしさあ」
アキが私の着ている服のすそを引っ張る。
女優でいいじゃん女優で。
馬鹿なことも繰り返して言う。
私はそれを振り払い台所に戻る。
床にぺったりと座り込んで、流しの下の扉を開く。

NOVEL