わたしはあなたのおにんぎょう

【彼女がリカをつぶした日】
土曜日の午後、眠気を誘う温い教室に二人きり。
「斉藤君、リンス何使ってる?」
唐突にそう言った彼女は、確かに誰かに似ていた。
「もしかして、   ?」
それが誰だか思い出せないからリカは機嫌が悪かった。機嫌が悪かったから、だから適当に唸って答えた。
「やっぱり。あたしもそれ」
ふふふ。
勝ち誇った様、というのは多分こんな感じなのだろうと、思った。
誰かに、似ていた。酷く。
それが誰なのか気付いたのは、彼女が教室を出たその瞬間。

【彼女がリカをつぶした日の二週間前】
背が高くて髪が短くて、脚が長い。本を読むのが好きで良く図書室で立ち読みしてる。国語と世界史が得意で、特に国語は模試の成績優秀者名簿に名前が載るぐらい。甘いものが好き。バス通学。尖った顎と、長い睫。付き合ってる奴はいない。同じクラスでリカのことをリカちゃんとかリカ君とか呼ばない数少ない女子の一人。

プリントを一枚ずつ半分に折って行く。折ったプリントを番号順に重ねる。
とんとんと、プリントの束を机の上で揃え、綴じる。
単調な作業。
「あ、他の人は?」
「っと、部活と病院と生徒会」
「部活、はこっちが優先じゃないの?」
「だよねえ」
ぎこちない会話。
「斉藤君部活何?」
「帰宅部」
「ああ」
「なんか部活やってんの?」
「うん、美術部」
「へえ」

背が高くて髪が短くて、脚が長い。本を読むのが好きで良く図書室で立ち読みしてる。国語と世界史が得意で、特に国語は模試の成績優秀者名簿に名前が載るぐらい。甘いものが好き。バス通学。尖った顎と、長い睫。付き合ってる奴はいない。同じクラスでリカのことをリカちゃんとかリカ君とか呼ばない数少ない女子の一人。美術部。
「あ、ねえ、第二ボタンってさあ」

「ただいま」
返事なんか期待せずに習慣で声を出した玄関で、汚れた赤いスニーカーに気付く。その上台所からは水音が聞こえて姉が帰ってきていることが分かる。
「いるんならお帰りぐらい言えよ」
「ああ〜?手伝えリカー、キャベツばらせえ」
「バラせってその言い方、なんかやばくねえ?」
「ふ、まだまだ甘いなリカ」
「何がだよ」
姉のこんな物言いは嫌いではない。ただこれでやって行けるなら社会人も案外楽なものだと思うだけだ。
「あれ、キャベツはがしてから切るの?」

「あんたは切ってからはがすの?」
「うん。いや、切ったらはがす必要ないっしょ」
「切ってから洗うと流しちゃうんだよ。ざる使ったら詰まるし」
リカがばらばらにして洗ったキャベツを姉は千切りにしていく。
「今日さ、学ランのボタンって引っ張れば取れるのかって聞かれた」
「あ、第二?季節外れだねえ」
「後、ボタンだけで売ってるのかとか、予備は持ってるものなのかとか、ボタンが無かったら服装検査で引っかかるのかとか」
「女に?」
「うん」
「可愛い?」
「……いや」
可愛い、のだろうか?可愛い、だろう。可愛いと思う。すごく美人とは言わなくても。
ウエストとか脚とか細いし。
「はーそりゃ災難だねえ。可愛くもない子に好かれてもねえ」
「好かれてんですか?」
「え?違うの?少女漫画とか好きな子なんじゃないの?あたしはそう言う告白の仕方って好きじゃないけどねえ」
「はあ」
「なんか思わせぶりって言うより気色悪いじゃん、どうせそこまでわざとらしいんならはっきり第二ボタンくれって言う方がましって言うか。…あ、そいつってさあ、リカの第二ボタンこっそり引きちぎる気なんだよきっと。ぶつかった時とかに。うわあ怖あ」
姉の言葉に少しだけ腹が立った。

【彼女が無情にもリカをつぶした日の十日前】
窓際に立つだけで日焼けしそうな放課後の教室に二人きり。
雨も降っていないのに体育館を取ることが出来なかったのか廊下で筋トレをするどこかの運動部。無人の教室を求め勝手に散らばる(無人だから当然か)吹奏楽部。リカには無縁の、集団活動が提供するBGM。
恋愛物が始まっても良さそうな見事なオレンジ色を背景にして、本当なら今頃グラウンドで走っているはずの無口なクラスメートがリカの背中を見つめつつ口を開く。
「斉藤、今斉藤見てたらさあ」
「何?」
「首、絞めてもいい?」
「……はい?」
「なんか、すごく、したい」
「おい立崎」
「お願い絞めさせて」
温かい指がそっと触れる。伝わる体温とか、やけに真剣な声、とか。首を捻じって振り向けば、酷く、気色悪い、表情、とか。
吐きそうになった。
「馬鹿っお前何っ――」手を上げようとしたら、彼はぱっと離れて間抜けにもこう言った。
「あ、違う」
『きょとん』とした顔をして、呆然と掌を見つめて――
「ごめん違う。ほんと、ごめん」
そうして、長距離が専門のはずの彼は、それでもなかなかの瞬発力を見せて、軽やかに(そう軽やかに!)教室を、逃げ出した。

先生!
警察!
お母さん!
リカは混乱した。
リカは立ち尽くした。
混乱するリカの耳に、音が聞こえた。
そちらに首を向ければその発生源はなんと彼女で、でもそれが彼女が戸を開けた音なのかそれとも何か落としたのかあるいは机にぶつかったのか、ただの足音なのかそれすら分からない。
「あ」何を、言う?何を、言えばいい?
「ああ」
あ、と言ったきり口を開けたまま固まるリカに彼女は頷いた。
ああ?彼女の返答にリカはさらに混乱する。立ち尽くすリカに構わず彼女は冷静に、普段通りにこう言った。
「うん、誰にも言わないから」
だから、何が、うん、なん、だ?
彼女は自分の机からノートを取り出すとさっさと教室を出て行った。

【べしゃっと音を立てて彼女がリカをつぶしたその悲劇の日】
土曜日の午後、眠気を誘う温い教室に二人きり。
プリントを一枚ずつ半分に折って行く。折ったプリントを番号順に重ねる。
とんとんと、プリントの束を机の上で揃え、綴じる。
単調な作業。
「陸上部、大会近いからね」
「え?」
「立崎君」
「あ」
「立崎君長距離、すごいんだよね。推薦で受験するらしいし」
「うん」
「やっぱり、あるんだろうね。プレッシャーとか」
「だろうね」
「立崎君もさ、悪いって言ってた」
「へ、え」
立崎君、立崎君、立崎君。
「あ、今日あたし二時で帰るから。でも美貴ちゃんが後から来るって」
「……田中さんね」
「うん、そう」
会話が途切れて、黙々と作業を続けて、やがて二時になって彼女が席を立って――

「斉藤君、リンス何使ってる?」
唐突にそう言った彼女は、確かに姉に似ていた。
「もしかして、   ?」
一重瞼の切れ長な目も、唇も、鼻の形も。
「やっぱり。あたしもそれ」
勝ち誇った様に笑うその笑顔も何もかも。どこが違うのかと言われて咄嗟に思いつかないぐらい。
それなのにたった今彼女が教室を出ようとするこの瞬間まで、リカはまったく思いつかなかったのだ。
そうしてくるりと向きを変えて教室を出て行く彼女の髪形が、後ろから見れば自分とそっくりだと言うことさえも。

【その後】
卒業式までまだ半年はあるというのに(おまけにそいつは二年生だと言うのに)制服の第二ボタンをなくしてその上付け直す気もない無口な男子と傷だらけの体を包帯やら絆創膏やらで飾り立てて楽しげに笑う女子、というあまり健全で無いがそれなりに幸せそうな二人、を校内で見かけるようになるのはそれから一週間後。

NOVEL