尾臺榕堂(良作) 尾臺榕堂(良作).pdf へのリンク
調べによると、尾臺榕堂は良作ですが、師匠である漢方医尾臺浅嶽(良作)の後継として、
尾臺家名を継ぎました。尾臺榕堂は、新潟の十日市の出身です。
師匠の尾臺浅嶽(良作)は長野県の小田井宿の出身です。
ちなみに、私の祖父は、長野県小田井宿の出身で尾臺助作です。曽祖父は、尾臺郡佐衛門です。
浅嶽(良作)は、江戸の大火で浅嶽の母と共に亡くなってしまいましたが、尾臺榕堂は、師匠である
浅嶽の医業と良作の名を襲名し、残された浅嶽の妻と、2人の息子の養育をしていったそうです。
のちのち息子も医者になったそうです。


尾臺浅嶽(良作)です。
長野県の小田井宿で生まれ、浅間山を見て育ち、
のちに江戸に出て医者を開業したと
伝承されています。
父尾臺五郎が生存中に、小石川の
赤ひげ先生のような医者が、尾臺家の
先祖にいたのだと言っていました。

尾臺浅嶽の後継者の尾臺榕堂に関する書物です。

尾臺浅嶽が故郷の長野県の小田井宿を
出て江戸に居住した当時のことが書かれています。

故尾臺五郎の叔父の
尾臺卓一さんからの便りです。

尾臺榕堂が江戸幕府の侍医になったことが
記述されています。


尾臺浅嶽の通称名が良作であったと
記述されています。

尾臺卓一さんからの賀状です。

尾臺浅嶽の住宅は、江戸の大家で焼失してしまい、
その時、浅嶽と母が亡くなりました。
尾臺榕堂は残された浅嶽の妻と2人の子供と共に、
尾臺浅嶽の後継者として家督を相続したそうです。
居住地は、江戸城外掘り南側の
江戸中橋北槇町です。
現在のJR東京駅南中央口八重洲二丁目付近です。

江戸時代の住宅地図です。
尾臺榕堂が住んでいたと
言われている場所です。(印し)
江戸中橋北槇町です。尾臺良作と書かれています。
現在のJR東京駅南中央口付近です。

尾臺榕堂良作の没後140年の
記念事業として、江戸時代に居住していた現在のJR東京駅の南中央口付近にモニュメントができました。
平成23年のことです。、

尾臺榕堂は、骨身を惜しまず貧しい
町人の病を治していったそうです。
医学の勉強だけではなく、書や詩にも
優れていて、とても勉強家だったそうです。

そして、後に幕府の筆頭侍医に
なったということです。

尾臺榕堂(逸)元逸の直筆です。
「余有るを待って後人を済わば
必ず人を済うの日なし
暇有るを待って後書を読まば
必ず書読むの時なし」

平成23年10月29日(土)
午後1時〜

尾臺榕堂之碑の除幕式典がありました。式典会場は、東京都中央区京橋1丁目1番地八重洲ダイビル
「三重銀行東京支店」
に於いて執り行われました。

東京都台東区谷中にある観音寺境内の
尾臺家の墓地です。

他に、隅田川を挟んで台東区雷門の東側の墨田区
吾妻橋の霊光寺の境内に尾臺家の墓があります。
この墓は、尾臺助作の長男の尾臺陸一郎の長男の
富雄が世話をしていましたが、事情で次男の茂が世話をしていました。ところが、茂が亡くなり
妻のキヨが、現在は世話をしています。

尾臺
榕堂は、
明治3年11月29日午前6時に72歳で天寿を全うされました。
戒名は「廉昭院貉然無悶居士」です。

尾臺榕堂が江戸幕府の筆頭侍医を務めていた終わり頃、1863年将軍徳川家茂の専属侍医を依頼されたらしいが、断り続けたらしいですが引き受ける条件として、3つの条件を
提示したそうです。
結局、条件が満たされて引き受けたとのことです。
その条件とは
@頭髪を剃らないこと
A定時出仕でないこと
B庶民の診療を止めないこと

古方派(こほうは)は、江戸時代前期、名古屋玄医が提唱した漢方薬術の一派であり、古医方派(こいほうは)とも言います。

名古屋玄医は当時主流になっていました。「金元医学」と呼ばれる唐・宋以降に編纂された書物に基づく薬術流派である後世派が、あまりにも理論的・瞑想的になり、治療の実践・実証から乖離していることに鑑み、薬はすべて、後漢末(2世紀末から3世紀初め)に書かれた傷寒論・金匱要略に依るべしとしました。また、これは伊藤仁斎の古義学の台頭(宋学(宋代儒学)の代表である理論的な朱子学への批判)とほぼ時期を同じくしています。

後藤艮山がこれを継承して古方派を理論的に確立し、徳川吉宗・家重の時代に吉益東洞が類聚方などを表して確立した。江戸時代を代表する古方派としては、他に香川修庵・山脇東洋・永富独嘯庵・松原一閑斎・栗山幸庵などがおり、実証主義の観点から蘭学の要素も取り入れた華岡青洲もこの流れに属します。幕末には、尾臺榕堂が優れた医家として知られています。